すくーるでいず -THE BOY MEETS THE GIRL-
act17.青空のかけら
今日の予報は一日雨。『夕方にはところにより激しく降るでしょう』とお天気お姉さんがにこやかにのたまうので、
風は仕方なく大きな雨傘をさして家を出る。
「風さん、待って。今日は一緒に行きましょう」
同じ学院生とは言え、弓道部の朝練や自主練習に出る風のほうが一時間早く出掛けるのだ。空はいつも早起きで、
風が姉と二人分の弁当を用意するかたわらで、なにかと忙しい母に代わり家族四人分の朝食の用意をしていた。両親の
起き出すのが遅くとも、早くに出掛ける妹と二人で朝の食卓を囲む。
鳳凰寺家には住み込みの使用人もいるが、『何処かへ嫁ぐにせよ、婿を取るにせよ、何一つ出来ないままではあまりに
情けない』という両親の教育方針もあり、時間の許す限り身の回りのことは自分ですることになっていた。
覚やフェリオがカルテットの練習に来る時も、子供の客に使用人の手を煩わせるのは如何かという両親の考えと、覚たちに
気遣わせまいとする空たちの考えで、あえて自分たちだけでもてなしていた。覚はそれこそ幼なじみと言える存在なので
いまさら驚きもしないだろうが、まだ日本に来て間もないフェリオが遠慮しては気の毒だからだ。
「どうなさったんです?空お姉様。日直さんにしても早過ぎませんか?」
「放課後は球技大会の練習がありますもの。生徒会役員の連絡会を朝に回しているのよ。中・高クラス委員長も定例会の
朝召集がかかってるでしょう?」
「はい。朝から会議なんだって驚きました」
「朝練で早起きに慣れている風さんは大丈夫でしょうけど、時々居眠りなさる方もいらっしゃるわね」
くすくすと思い出し笑いの風情の空が、ふっと風の傘を見つめた。
「やっとその傘を使ってくださるようになったのね。『青い空に白い雲だなんて子供のお絵描きみたい』って、申し訳程度に
一度使ったきり、ずっとしまい込んでらしたでしょう?」
えてして贈り物のセンスがいい空が、およそ風の趣味から掛け離れた絵柄を進学祝いに選んだことをずっと不思議に
思っていた。
「――どうしてこの傘だったんですか?進学祝い…」
「風さん、傘をなくしたばかりでしたもの」
「それは、そうですけど…」
より正確に言うならなくした訳ではなく、店先の傘立てに置いたものを持ち逃げされたのだ。それこそ自分で選んだモス
グリーンの大きな傘で、弓道部の道具がかさ張る日にもうってつけだったのだ。傘から滴る水で店内の床が滑りやすく
なってしまうからとの配慮を、誰かの悪意で踏みにじられたのだ。たとえその誰かが傘を持たずに来店したのだとしても、
中では安価なビニール傘を売っているのだから、悪意以外の何物でもなかった。一分の非もない身にもかかわらず、
突き付けられた悪意に傷つき、風は酷く落ち込んでいたものだった。
聖レイア学院は比較的品のいい生徒が集まっているが、初等科で学級委員や児童会役員を歴任してきた風なら、
中等科に上がり地域交流会などで他校生との接点が増えることも空には十分予測出来た。
高校生ともなればそれなりに対処は出来るだろうが、中学生ぐらいが一番多感な時期でこじれるとやっかいになる。
だからある意味、あの一件は風にとってはいい勉強であったように空は捉えていた。悲しいかな、示した善意が必ずしも
善意で返されるとは限らない世の中で有ることを知る、傘一本分の授業料だった。朝からそこまでの話も重いので、空は
短く答えた。
「雨の日ってどうしても沈んでしまいがちだもの。作り物だと解っていても、青空のほうが気分がしゃんとするものでしょう?」
初めてカルテットの練習にやってきた日のフェリオが話したのと同じことを姉も考えていたのかと、なかば唖然とした思いで
にこにこ微笑む空を見つめていた。
立ち止まったままの風に、空は髪や口許を気にしながら慌てたように尋ねた。
「なあに、風さん。三つ編みが変かしら?それとも顔にパンくずでもついてるのかしら?」
「いいえ、空お姉様。覚さんがドキドキされるぐらい今日も素敵です」
隠しているつもりもないが、さりとてラファーガ&カルディナほどオープンにしている訳でもない覚の名を妹から持ち出され、
空はぱあっと頬を赤らめていた。
「いやな風さん!あなたに特別な方が出来たら、絶対にからかってさしあげますからね」
めったに見られない狼狽する姉を見て、朗らかに風も笑った。
「私にはそんな方いませんもの。バスに乗り遅れないうちに参りましょ、空お姉様」
自分だけの青空をクルリと回して降り注ぐ雨を振り払うと、風は姉を促してバス停への道を急いだ。
弓道部の朝練を終えた風が中・高等科のエントランスに戻ってきたとき、登校したばかりのフェリオとアスコットに出くわした。
「おはようございます」
「お、おはよう…」
はにかむことなく話せることも増えてきたアスコットだが、突然声をかけられるのはどうにもまだ苦手らしく、ぼそぼそとした
返事が聞こえてくる。フェリオは風が手にした傘を見て嬉しそうに笑った。
「はよっす!今日もマイ青空持参だな」
「そんなにお気に入りならご自分で持たれたらいかがです?売っているお店を姉にきいておきましょうか?」
「や、それは遠慮する。野郎が持っていいもんじゃないだろ、ソレ。可愛い女の子専用だ」
風が持ち逃げされた傘は実は紳士物だったのだが、女性が紳士物を持ってもそう責められはしないが、男性が女性向きの
傘を使えば奇異な目で見られること請け合いだ。確かにこの柄を許されるのは、若い女性か小学生男子ぐらいまでだろう。
良きにつけ悪しきにつけ褒められなれている風は、フェリオの最後の一言を見事にスルーして答えた。
「お好きなのに残念ですね」
「…手の届かないものに憧れて遠くから眺めるのも、まぁ悪かないさ」
微かに自嘲の色を帯びたフェリオの言葉が、ちくりと小さな棘を刺す。綺麗な琥珀色の瞳が翳るのを見ると、何故だかひどく
心がざわめいた。
「簡単に諦めてしまっては、なんにも始まりませんわ」
そう言って柔らかな微笑を残して、風は二人を置いて教室へと歩き出した。
今日は高等学校生徒会地域交流会があり、生徒会長の覚がそれに出席することになっていた。相変わらずランティスが
サボり魔だからか、単に顔を合わせづらい事情からか、覚は書記の空を帯同していた。その為、今日のカルテット練習は
風とフェリオの二人だけだ。
正門前で待ち合わせたフェリオは帰宅する風に同行していた。バスを降りて鳳凰寺家に歩く道すがら、フェリオがぽつりと
呟く。
「アスコットのヤツ、ちゃんと一人で帰れるかな…」
転入以来、登下校で別々になるのはこれが初めてだった。
「もう十日ほどにもなるんですもの。大丈夫なのではありませんか?」
「だといいんだが」
「本当に困ったと思われたら連絡してこられますわ。携帯電話、お持ちでしょう?」
「まぁな」
「…たとえあなたがたがご親戚同士でも、一生そばについていられる訳じゃないでしょうし、信じて手を離して差し上げるのも
愛情かと思いますけど?」
愛情などという言葉が面映いフェリオは頬をぽりぽりと掻いていた。
「今回の留学は、どっちかっていうと俺の事情に巻き込んじまった面があるから、ついね…。けど、あいつにだってあいつの
目的があったんだから、きっと、ちゃんと出来るよな」
「目的?」
勉強意外に留学の目的などあるのだろうかと風は小首をかしげた。
「お前になら話してもいいかな…。聖レイアにはあいつの初恋の人が通ってるんだ。しかも一目ぼれだったらしい」
「まぁ…!」
あんなに内気で恥ずかしがり屋の少年にも初恋があったのかと、風はびっくりするあまり目がまん丸になっていた。
「おいおい。そんなにびっくりすることないだろ?あいつにだって、人並の感情はあるんだぜ?」
「…とても引っ込み思案でいらっしゃるから、ちょっと意外で…」
あれほど人見知りの彼の心を一目で惹きつけたのはどんな人なんだろうと、風は見知った学院生の顔をランダムに思い
浮かべていく。生徒総数が知れているし、ほとんどが初等科からの持ち上がりなので、中等科生なら顔と名前はほぼ記憶
していた。
その思考を中断するかのように、風の鼻の頭に大きな水滴がぽつぽつっと当たった。
「いやですわ。もう少しですのに…」
降り始めた雨に風が慌てて傘を開く。そのときようやくフェリオが自分の荷物の少なさに気づいた。
「いっけね…。なんか楽だと思ったら、学校に傘、置き忘れた…」
砂漠のような乾燥地帯という訳でもないが、祖国であまり雨傘を使う習慣のなかったフェリオにとっては面倒な荷物の
最たるものだった。
「この傘は大きめですからなんとか二人入れますわ。そのトランペットケース、前に抱え込んでいただけます?」
初めて鳳凰寺家に練習に行ったときはファイバー製のハードケースだったが、学生鞄や他の荷物もあって持ちにくいことも
あり、ショルダーストラップつきのソフトケースに買い換えていた。
「なるほど、こういうときにも便利なんだな、こういうケースだと…」
楽器が濡れてしまわないようにと二人の間にあったトランペットケースが位置を変えたことで、二の腕がぴたりと触れるほど
二人は寄り添っていた。少し肩が濡れているフェリオのほうに傘を押すと、その風の手にフェリオの手が重なった。身長は
風より僅かに高いぐらいなのに、楽譜を指さしたあの長い指を持つ手は意外に大きくしっかりしていた。
「いいんだ、お前のほうが濡れちまう。入れてもらってるんだし、俺が持とう」
「でも…」
「いまなら俺がマイ青空持ってたって、恥ずかしくないだろ?」
そう言ったフェリオが傘を持っていた風の腕に絡めるように腕を通して傘を持ちにきたので、腕を組んだ相合傘状態になり
風のほうが気恥ずかしさに視線を伏せていた。
「…そ、そうですね…」
言うならいましかないと、この雰囲気を逃すまいと意を決したフェリオが口を開こうとしたとき、背後から忍び寄るものに
彼の野望は打ち砕かれた。
「風お嬢様、お帰りなさいまし」
その声に風が首だけで振り返りにこりと笑った。
「ただいま戻りました。ばあやさん、雨の中お買い物でしたの?」
「はい。ほんに鬱陶しいお天気で困ります…。ようこそいらっしゃいませ、フェリオ様」
風の姉の空が生まれる以前から鳳凰寺家に仕えているばあやが、主家の大切なお嬢様と馴れ馴れしく腕を組む客人にも
丁寧に頭を下げる。
「お邪魔します。あの、傘を忘れてフウ…お嬢様に入れていただきました」
いつぞやの覚のことなどとても笑えたものではない。聞こえているのかいないのか、鳳凰寺家の門を開けるとばあやは
恭しく主の一人と客を通した。
「お嬢様、どうぞお早目のお召し替えを」
「はい。今日もオーディオルームを使いますから、フェリオさんにタオルと温かい飲み物をお願いしますね」
「承知いたしました」
欲しいものは他にあったのに、言い出せなかったフェリオはがっくり肩を落としていた。
ばあやが無言の圧力とともに(というのはフェリオの考えすぎか?)用意してくれたタオルで軽く水気を取り、温かいホットチョコレートで
人心地がつくと、フェリオは防音サッシの向こうの雨空をぼんやりと見上げていた。
祖国の空がいま晴れているかどうかさえ、遠く離れたフェリオには判らない。地上波・衛星波を問わず膨大なニュースが
世界中から流れ込むこの国でさえ、これといった世界遺産があるでもない彼の故国をとりあげることはなかった。
相次いで父母がこの世を去ったあと、長子である姉がその一身に全てを担うことになってしまった。年こそ三つ離れているが、
うっかりすると彼の妹と勘違いされてしまうほど、華奢で儚げなその肩に重責を背負いつつ、いつも弟である自分を気遣って
くれていた優しい姉。
昼と夜ほどにも離れてしまって以来、この国の雨続きの空を見るたび、『姉が泣いているのではないか』という気がして
ならなかった。姉にも大切な人が出来て、彼がその心の支えになっていることも判っていたが、それはそれでフェリオにとっては
寂しいことでもあった。
待ち人が入ってきたことにも気づかず鈍色(にびいろ)の空を見上げたままのフェリオのかたわらに、風が静かに並んだ。ハッと
したように、フェリオが風の顔を見つめて、言いそびれたまま散らしてしまった言葉をかき集めようと試みる。そんなフェリオの
右手を取ると、風は穏やかな笑みを浮かべて、その掌に彼がずっと欲しがっていた物をそっとのせた。
「球技大会の間だけですけど、この青空ならフェリオさんが持っていてもおかしくありませんわね」
「…フウ…」
「それが終われば本格的な梅雨になって、この国ではもっと雨が降ります。でも、その合間に見る五月晴れも、とっても美しい
ものなんですよ」
初めて自分の為だけに見せてくれた風の微笑のほうが綺麗に違いない……、とは、あまりのキザさに言い出せないフェリオは、
一言だけ告げた。
「ありがとう、フウ」
――きりりと額に巻くその日まで、
ポケットにはひとつ、お前のくれた青空のかけら――
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