すくーるでいず -THE BOY MEETS THE GIRL-
act2.特別校舎1
聖レイア学院中・高等科の外壁沿いには遊歩道が整備されていて、一周するとほぼ一キロになり運動部のいいロードワーク
コースになっている。森に囲まれてはいるが敷地内の警備が行き届いているので、女子だけで走っていることも少なくない。
剣道部とフェンシング部、弓道部の女子部員が合同ロードワークをする中、光だけが三周目に入っても涼しい顔で先頭を
切っていた。二十メートル近くも一人先行してしまったので、その場をキープしながら他のみなを待っていた光が、不意に
きょろきょろする。
「ねぇ、海ちゃーん、ピアノの音がしてなーい?」
二番手で走ってくる幼稚舎からの親友・フェンシング部の龍咲海にそう声をかけたが、息が上がっている海はそれどころでは
なかったらしい。
「き…、聞こえないわよ、そんなもの!なんで…なんでそんなにタフなの、光ってば…」
「五キロぐらいなら時々兄様たちと走ってるから」
「バ、バケモン兄妹…」
「ひっどーい!普通だよ!(いや、違うだろう…)あ、ほらまた、ポーンって…」
「なんで…こんな森の中で…ピアノの音なんて…するのよ。空耳、空耳っ」
やっと追いついてきた海はぜぇぜぇいいながら、両手で膝を掴むようにして俯いていた。
「急に止まっちゃダメだよ、海ちゃん。せめて足ふみしないと…」
タッタッタッタッと足ふみしながら光は外壁の向こうを見上げた。
「あ。特別校舎から聞こえたのかな。ちょうどすぐ内側にあるよ」
「あれは開かずの校舎だから…、誰も出入り出来ないわ」
「開かずの校舎?なんで?」
噂話の類にはとんと鈍い光がキョトンとした顔で聞き返す。やはり幼稚舎からの親友で弓道部の鳳凰寺風が追いついてきて
その話に加わった。自分のペースを守って走っていたせいか、こちらは呼吸に乱れがない。
「老朽化を理由に立ち入り禁止になってますわ。本当は取り壊しの話があったらしいんですけど、正八角形で外観が綺麗な
建物だから保存して欲しいと、卒業生や地域のみなさんのご要望もあったらしくて保留のままなんだそうです。海さん、足を
動かしませんと…」
「はいはーい。やっぱり光の空耳だったのよ。立ち入り禁止の校舎でピアノの音だなんて…」
「あら、ピアノの音が聞こえたのですか、光さん…。困りましたね」
俯いて目許に影を作りながら、風は少し意味ありげにうふふふふっと笑った。
「どしたの?風ちゃん」
「空お姉様が先輩からお聞きしたことがあるって教えてくだすったんですけれど……。この特別校舎でピアノが聞こえると、
『出る』…って」
ワザとらしいほど不気味な話し方に、海が耳を塞いで悲鳴を上げる。
「いやーっ!やめてーーーっ!私、そういう話は…っ!」
風の話しぶりにも、海の悲鳴にもついていけない光は、ひとり目をぱちくりさせていた。
「『出る』??何が??ネズミか?」
まったく解らないという顔の光に海は呆れ果て、風はころころと笑い出した。
「『出る』っていったら、幽霊に決まってるじゃないの、光ったら…。あああ、取り憑かれるかも…っ!」
「おほほほほほ。いやですわ、光さんったら。脅かし甲斐がございませんわね」
「幽霊…?」
一人腑に落ちない顔の光を追い越しざま、上級生の一人が後ろを振り返った。
「ほらほら真面目に走る!あと半周!!ファイトォ!!」
「「「ハイっ!」」」
「ほら、獅堂さん、置いていくわよっ!!」
特別校舎をぼーっと見上げていた光はいつの間にか一番ビリになっていた。
「うわぁ、いま行きますっ!」
まだ特別校舎を気にしつつも、光はトップを奪い返すべく全速力で走っていった。
その場で騒いでいた者たちが走り去ったしばらくあと、またどこからともなくポーンとピアノの音が一音だけ響いていた。
部活を終えたまには三人揃って帰ろうと思ったものの、フェンシング部も弓道部もまだミーティングがあるということだった。
どちらも対外試合が近く、『遅くなるだろうから待たないで』ということだったので、光はひとり下校しようとしていた。過保護な
兄たち(優と翔)がくっついていないのは、三兄弟が交通費節約とトレーニングを兼ねて、自転車通学をしているからだ。兄妹
四人私学に通わせるとなると、経済的負担が大変でない訳がない。覚はずっと学年首席を、優は学年三位以内をキープして
いたので、学費免除の特待生と、半額免除の優待生として多少の親孝行をしていた。中等科に上がったら光も自転車通学を
するつもりはあったが、『プリーツスカートでスポーツサイクルは無理!!』と敢え無く却下されていた。
かばんを手に体育館脇のクラブハウス(部室のみならず、シャワーや運動部共用のトレーニング機器も完備されている)から
出た光は、見るともなしに学院敷地の体育館とは対角にある特別校舎を見遣った。
「あれ…灯りが点いてる…」
何か映り込むような光源も近くにない。それに光の視力は眼鏡っ娘(こ)の風が羨む、両眼2.0だ。(海には『きっとその分、
老眼が早いわよ』と、えらく気の長い脅しをかけられたものだが)
しばらく考え込んでいた光は、一旦クラブハウスに取って返すと、かばんとあるものを手にして歩きだした。
防犯の為もあって、部活の学生がいなくなったあとも校庭はそう暗くない。校舎屋上の太陽光パネルでの発電の余剰分を
売電していて、夜間の照明分がだいたいチャラになるらしい。目的地が対角なのだから校庭を突っ切るのが手っ取り早いの
だが、授業中でもないのに他部のフィールドに踏み入れるのが憚られて、光はLの字にすたすた歩いていた。
近づいてみるにつけ、やはり見間違いなどではなく、特別校舎の最上階に灯りが点っていた。
「開かずの校舎なのに、ドア開いてるし…」
KEEP OUTのロープをくぐり抜け近づくと、いやに古めかしい南京錠が外されていて、閉じきっていないドアの隙間から空耳
ではなくはっきりとピアノの調べが聞こえていた。
「と、取り憑かれるの、かな…。大丈夫、これがあるんだから…」
クラブハウスで取ってきた物を袋から取り出してぐっと握りしめると、光はそろりと特別校舎に足を踏み入れていった。
息を潜めて、薄暗い非常用のように無骨なスチール製の螺旋階段の手摺りに左手を滑らせながら、足音を立てないように
ゆっくりと上がっていく。使われていない校舎のわりに、手摺りにあまりざらついた感じはしなかった。夜に溶けていくような
優しく低い声ですぐには気づけなかったが、どうやらピアノに合わせて歌っているようだった。
「これ、賛美歌だよね。…アメイジング・グレース…?」
幽霊が神を讃えるなんてことはないだろうと思いつつ、光は階段を上がりきった。
『――やっぱりあの人はセラフィムだ…』
熾天使≪セラフィム≫が口にするのは賛美歌ではなくサンクトゥスのはずだが、クリスチャンではない光にそんな細かい
ことは解らない。その繊細な空間を壊すことが出来ず、曲が途切れたら声をかけようと思ううちに、光は目を閉じてうっとりと
聴き入ってしまっていた。暗い窓が鏡のようになり、こっそり忍び込んだ光の姿は弾き手にはバレバレだった。
「物騒なモノを手にした聴衆に背後に立たれるのは、どうにも落ち着かないんだがな」
振り返りもせず、窓に映る影に向かってそう言ったランティスの声に、ハッとしたように光が竹刀を背後に隠そうとして、
慌てすぎて手が滑った。
「あっ!」
ガシャガシャと派手な音を立てて螺旋階段の手摺りの隙間から落ちていく竹刀を追いかけようとした光を、ピアノの椅子を
蹴っ飛ばしてきたランティスがあの朝と同じように背後から抱きとめた。
「落下の衝撃で壊れる物ならもう手遅れだ。お前まで落ちたら、サトルに合わせる顔がない」
頭上から落ちてくるだけでもぞくぞくする声に耳元で囁かれると、光はくたりと身体の力が抜けていった。
「ふにゃあ…」
「おいっ!」
腰砕けにへたり込みかけた光をお姫様抱っこすると、窓際のソファーのカバーを蹴飛ばしてめくろうとして、びりっと破いて
しまった。その音に小さく唸りつつランティスは光を座らせた。
「…こういうの蹴飛ばしちゃうかな…」
「お前で両手が塞がってたからな。落として欲しかったのか?」
「ごめんなさい。カバー、私が弁償するよ」
「破いたのは俺だ。古い物だから生地が弱ってたんだろう。だいたい竹刀を手に殴り込みをかけといて、どうして腰を
抜かすんだ?」
くっくっくっと笑いを堪え切れなくなってきたランティスが、光の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「なっ、殴り込みって訳じゃないけど…。ロードワークの時も開かずの校舎からピアノの音がしてたし、部活から帰ろうと
思ったら、灯りが点いてたし…。みんなが『特別校舎は出る』って言うから、やっぱり竹刀ぐらい持たなきゃダメかなって…」
「『出る』って幽霊か?それなら竹刀より、ロザリオのほうが効果ありそうだがな」
「クリスチャンじゃないし、クラブハウスにそんなの置いてないよ」
「クリスチャンでもクラブハウスには置かんだろう」
あまりにもバツが悪くて俯いたまましばし黙り込んでいた光がぼそりと尋ねた。
「どうして開かずの校舎に…?」
普段でも低い声をさらに低くしたランティスが、光の耳元で囁いた。
「こうやって怖いもの見たさで忍び込んでくる、いけない下級生の生き血を啜る為にな」
いつの間に羽織っていたのか、ドラキュラばりの黒マントでランティスは光の視界を奪った。
「うきゃあっ!」
首筋に齧りつく気も削がれそうな色気のない悲鳴に、ランティスはばさっとマントを翻した。
「まったく…。場合によっては幽霊なんかより、生身の相手のほうが怖いことだってある。解ってるのか?お前…」
もしもランティスがそういう気になったなら、竹刀も持たない光など抵抗しきれないだろう。シスコンだと揶揄されながらも
優や翔が過剰に心配するのも、これでは無理からぬことだと思えた。
「……」
「あまり無茶なことをするな」
「…はい」
すっかりしょげ返った光を宥めるようにランティスが大きな手で優しく撫でていると、ばちばちとひどく大粒の雨が窓を叩き
始め、あっという間に土砂降りになっていた。
「お前、傘は?」
立ち上がって窓の外をじっと見据えながらランティスが光に尋ねた。
「教室とクラブハウスにはあるけど、かばんのは昨日使っちゃったから、入ってない」
「携帯は?」
「…電池切れ」
「写真を撮るんじゃなかったな。俺も電池切れだ…」
写メなどしそうなタイプに見えないのにと疑問に思った光は思うままに問いかけた。
「何の写真撮ってたんだ?」
「このピアノだ。昔、祖父(じい)さまがよく弾いてたらしい。俺が調律しに来るのを母から聞きつけたんだろう。祖母(ばあ)さまの
リクエストでな。まったく、子供使いも孫使いも荒くて敵わない」
古いピアノに歩み寄ったランティスの言葉は、ぶっきらぼうなわりには心底嫌がっているとも思えなかった。
「調律って、調律師さんに頼むもんじゃないのか?」
「音楽室やホールのは頼んでるがな。自分が弾くぐらいなら、そこそこには出来る。『プロに調律を頼むのに恥ずかしくない
程度に調整しておいて』と、ふざけたこと言う理事が居てね。日頃ぞんざいに扱っておいてよく言えたもんだ」
学院理事であるランティスの母親は世界中で活躍するピアニストなのだと、駅で助けて貰ってから知った光はとことん
その手の噂に疎かった。
「ピアノ上手かったね。やっぱり母様に習ったのか?」
ソファーからぴょこんと立ち上がった光は、ポロン…ポロン…と音を確かめているランティスの手許を覗き込む。
「母に教わったことはないな。幼稚舎の頃に祖父さまが少し手ほどきしてくれたが、向こうに行ってからは独学の自己流だ」
「手がすごく大きいし」
「そうか?別に身長相応だろう」
「だって、2オクターブでもいけそうだ」
「いや、さすがにそれは…」
といいつつ鍵盤の上に置いた手は、無理をすれば叩けそうな範囲に届いていた。
「私は今でも1オクターブに届かないんだ」
ランティスの大きな手に並べると本当に子供の手のようだった。やはり血筋が物をいうのだろう。ロードワークで多少は
焼けている光よりも色白で、大きいけれど無骨な感じのしない端整な手。女の子である光の手のほうが酷く荒れているのが
明らかで、慌てて隠すように引っ込めた。
「何も隠さなくても…」
「だってカッコ悪い。綺麗な手に並べたらみっともないんだもん」
「道場の雑巾がけなんかで水を使うからじゃないか?下っ端(中等科一年)ならやらされるだろう。ハンドクリームでも使えばいい」
「竹刀が滑ってすっぽ抜けるのが怖くて…。家に帰ってから閃光と遊んだりするから、後回しにしてるうちに忘れちゃうんだ」
「『ヒカリ』?」
「うちにいる大っきな犬。私が遊ばないと落ち着かないんだ。――勉強しない日はあっても、竹刀持たない日はなかったかなぁ。
あ、旅行中とかは別だけど」
「優勝はそういう日々の積み重ねの成果だな。学校表彰があってもいいぐらいなのに。うすぼんやりの理事(注:ランティスの母)に
言っておくか」
ふむと考え込んでいるランティスを光が慌てて止めた。
「そ、そ、そんな表彰いらないよ!『あの程度の規模の大会の優勝ぐらいでいい気になっちゃいけない』って、覚兄様に
いっぱいダメ出しされてるのに、困る…」
ランティスにはあんなに嬉しそうに話していたくせに、妹には鬼コーチの顔を見せているらしい。
「解った、お前を困らせたい訳じゃない」
少しホッとした表情を見せたあと、光はまたピアノの鍵盤をじいっと見つめていた。
「そんなに見つめるな。鍵盤に穴が開く」
ハッとした光が少しふくれっ面をしてみせる。
「あ、開かないよ」
「いや、凄い迫力で睨んでたから、焦げ穴ぐらい開くかもしれん」
至極真面目な顔をしてそう言ったランティスに、光が目を伏せてぼそりと話しだした。