―― 遠雷 E・N・R・A・I ―― 名場面集 (…集?)
§義彬と楓の出逢い
(ランティスと光が試演した殺陣の直後のシーン)
義彬に剣を叩き落とされた楓は右手首を押さえて膝をつき、守り刀を拾った。まだやる気
なのかと幾分呆れ気味の義彬の目の前で楓は切っ先を白い喉元に向けていた。楓にして
みれば、仇討ちが叶わなかった以上、自害もやむなしとの思いが少なからずあった。長逗留の
馬鹿殿はともかく、最上様は名君として町の者たちに慕われている。跡取りに続き娘まで亡くした
病いがちな年寄りを断罪はすまい。
だが、そんなことをされて寝覚めが悪いのは義彬のほうだ。兄・義就に聞いた概要は気の毒の
一言に尽き、「間が悪かった」としか言いようがなかった。もっともかの者の身内にしてみれば
とても割りきれることではなかろうが。だからといってここで義就の代わりにむざと殺される訳にも
いかない。
その細く白い首がかっ切られる前に、義彬の左手がぐっと楓の手首を掴み喉元から遠ざけると、
大きな右手が守り刀を取り上げた。雷雲に追いつかれ大粒の雨が二人を打ちはじめると、辺りを
見回した義彬が楓の手を引いて大股で歩きだし、あまり使われていないらしい水車小屋へと押し
込んだ。
「な、何を…!?」
出入り口を義彬に塞がれた楓の声は幾分うわずっていた。気が強いようでもこのような場所で
自分に好意を持ちえない者と二人きりでは落ち着けようはずもない。
「雨宿りに決まっている。それとも何か別な事を期待しているのか…?」
ふっと流して寄越した視線がひどく艶っぽくて、思わず楓は頬を赤らめていた。人もあまり寄り
つかない水車小屋はあちこち雨漏りしていて、楓のすぐ傍にもボタボタと水が落ちていた。跳ね
返る雨垂れで、楓の着物の裾が濡れている。いつ止むとも知れぬ冬の雨に濡らすには華奢な
娘を義彬はぐいっと抱き寄せた。
「いやっ!」
「そこでは濡れる…。そなたに無体を働く気はない」
そうは言われても誰が兄の仇の腕の中で落ち着けよう。胸に顔を埋めているような格好に
いたたまれず身じろぎした拍子に、大きく裂けた袖と太刀傷が楓の目に入った。
「…かえしてください…」
小さな楓の声に義彬が苦笑した。
「雷も近づいてるのに…?雨が止むまでともに待つのも嫌か…」
「そうではなくて。守り刀を返してください。もう貴方に斬りつけたりしませんから」
「そなたにここで自害されるのも困る。そう散り急ぐな」
どうしてだかこの男に言われると他の意味が含まれているように聞こえてしまうのは楓の気のせい
だろうか。かすかに朱のさした頬を感じつつ、噛みつくように楓は言った。
「それも致しません!だから返して!!」
「男に頼み事をするなら、もう少し可愛くねだるほうがいいと思うが…。折角の器量が台無しだ」
「『気丈なやつ』と言われることはあっても、『器量よし』なんて言われたことはございませんもの、
余計なお世話です!」
「やれやれ。見る目のない者に囲まれているな」
命を粗末にするのでなければ良いかという感じで、義彬は楓に剣を返した。鞘に収めるかと思いきや、
左手を袖口から引っ込めたかと思うと袖八つ口から引き出した襦袢を切り裂きはじめた。
何をしているのだと半ば呆気に取られている義彬の前で躊躇いもなくざくざく裂くと、端切れと化した
それで楓は義彬の腕の傷口を縛りつけた。
「…すまない。それにしてもおかしなやつだ。自分で斬っておいて手当てするのか」
くすりと笑う義彬に答えず、楓は質問で返した。
「何故…刀を抜かなかったのです?」
「女子供を斬る剣は持ち合わせてないんでな」
さらりと言った義彬を楓がキッと睨み上げた。
「よくもいけしゃあしゃあと…!私、あの場に居りましたのよ。将軍様ゆかりの松平の馬鹿様の馬を
驚かした太一も悪かったけど、あんなちっちゃい子供を無礼討ちにしようとしたくせに!」
「…松平の『若』様、だ…。表でそんな呼び方をしたらそなたも間違いなく無礼討ちにされるぞ」
そう言いながらも義彬もくすりと笑っていた。
「今の世の中、将軍様の御威光に逆らえる武士がいるものか。改易で済めばまだしも、下手をすれば
御家取り潰しだ。召し抱えている者たちの暮らしにも関わるのだ。うかつな真似は出来ぬ」
ここしばらく最上家上屋敷近くに居着いている将軍の又従兄弟にあたるという松平尊綱の狼藉ぶりに、
町の者らは辟易していた。
器量よしの娘と見れば囲い込みに躍起になり、慌てた親が遠くの縁者に奉公に出した…などなど、
迷惑千万な輩なのだ。たまさか屋敷が近かったからというだけで面倒を押し付けられた最上の若様こそ
いい災難ではあろう。
「…そのようなことを言ってみたところで、そなたの兄上を結果的に死なせてしまった言い訳には
ならんな。……すまなかった。義就もずっと気にかけてはいるんだ。だから私が手を合わせにきた」
「ずいぶんと他人事なおっしゃりようですのね!義就様は貴方でしょう!?」
詫びる気持ちがあるように言いながら、他人事な話しぶりに楓の語気もまた強くなる。
っはぁーっと、心底呆れたようなため息が義彬の口から零れた。
「問答無用で斬りかかるぐらいだから気づいてないのだろうなとは思っていたが…。話していてもまだ
判らないのか。そなたの兄上を斬ったのは最上義就、私の双子の兄だ」
「双子!?そのような戯れ言で騙されるとでも…」
「最上家の跡取りが双子であったことはほとんど外に出さなかったからな。考えてもみろ、このような
浪人の風体で、将軍様の御威光を振りかざす松平の馬鹿様の御前に出られるか」
楓をたしなめていたその口で馬鹿様呼ばわりをする義彬もまた、やはり苦々しく思っているのだろう。
言われてみれば確かにそこには楓も引っ掛かりを覚えていた。だが、あの日松平某様も、最上の若様も
陣笠を被って鞍上にあったのだしと自分を納得させていたのだ。陣笠の下に月代はなかったのだと…。
「義就の影であることを強いられてきた者らしく、代わりに斬られてやればよかったのかもしれぬが、
そこまで流される気もない」
「人違いなら…人違いと言えばいいのに…」
楓の腕がもう少したっていたなら、濡れ衣で人一人殺してしまうところだったのだ。
「いかにそなたが剣術師範の娘でも、女に斬られたとあっては、『最上家末代迄の恥』と父上に切腹を
申し付けられるだろうから、結果はそう変わらんかもしれぬがな」
「斬ったわよ、もう…。父上様になんと言い逃れなさるおつもり?」
明らかに女物の布の切れ端で縛った腕をどう申し開きするのだろうと楓が訝しんだ。
「この程度なら…、『女を取り合った成り行きで』と艶な話をでっち上げてもいい。幸い、事の次第を
見ていた者もいない」
「ここで私を斬っても、誰も気づかないわ…」
「そなたを斬るならもっと別の…」
ふっとまた艶っぽい微笑を浮かべたが、俯き加減の楓には見えなかった。
止む気配なく降りしきる雨に稲光がまじりはじめた頃から、楓は時折ビクリと身体を強張らせていた。
「どうした?雷が怖いのか?」
「そ、そんなこと…、きゃっ!!」
地響きがするほど近くに落ちた音に、楓はそこに居るのが誰かも忘れてしがみついていた。
「めったに落ちるものでもない、人の上にはな」
「お、落ちない保証なんてどこにもないじゃありません…かっ」
新たな稲光に身をすくませた楓の目に触れないように、義彬は袂で覆いこんだ。
「万が一落ちても、身を焦がす思いもせぬ間にあの世行きだ。そう案ずるな」
「雷に身を焦がすなんて真っ平です」
「確かにな。どうせ身を焦がすなら雷より他のものがいい…」
「な、何をたわけたことを…」
ビシャッという雷鳴とバリバリバリと樹の裂ける音に怯えた楓がかたかたと震えていた。
「そんなに恐ろしいものか?旗本の跡取りに斬りかかって返り討ちに遭うより打たれる率は
遥かに低いだろうに…」
「……まだ幼かった頃、両親や兄と湯治に出掛けた折、宿に雷が落ちて焼け出されたことが
あります…」
あわやという目に遭った経験があるのかと、義彬は微かに目を見開いていた。
「闇と焔と煙にまかれてはぐれた私をお兄様が助けに戻ってくださったのです。焼け落ちてきた
梁からも庇ってくれて背中に酷い火傷を負いながら…。まだ十にもならない頃だったのに」
そんな優しい男だったから、年端もいかぬ子供が討たれようとしているのを見過ごしに出来なかった
のだろう。
「良い兄上だったのだな…」
「今度は…私が…私が代わりに斬られたらよかったのに…っ。私なら、一生剣を振るえなくても、
たとえ片腕を無くしても、お兄様がいらしたほうが…どんなにか…」
しゃくりあげる楓をぐっと抱きしめて、義彬が諭すように語りかけた。
「それはそれで兄上を悲しませたのではないか?遺されたそなたに出来ることは、兄上に代わり
父上母上に孝行することだろう」
悔しげにきゅっとくちびるを噛みしめて、楓が乾いた笑いをこぼした。
「確かに多少の覚えはありますけど、小娘に剣の手解きを受けにくる物好きがどこにいます…?」
「師範代に立てる腕の者はおらんのか」
町道場といいながら、藩仕えの者の出入りも少なくない知る人ぞ知る流派なのだ。
「年嵩の方ばかりなので、皆様、良いおかみさんをお持ちですわ。雇うとなればそれなりに出さねば
なりません。父上も兄上もあまり金子(きんす)には拘らなかったので、『カスミで口を糊する訳には
いかないのですから』と、私が口うるさく言いはじめた矢先でした。もっとも、剣の腕は無くとも金と
口は出す…という大店(おおだな)の…松乃屋さんの放蕩息子なら、おりますけどね」
その口惜しげな声音を聞けば、楓がその相手を嫌がっているのは火を見るより明らかだ。
「…『娘を寄越せば』の、条件付きか…」
老舗の呉服問屋・松乃屋の尚左衛門と言えば、界隈で知らぬ者がない無類の女好きだ。楓が
嫌がるのも無理からぬことで、そうである以上は身売りと大差ない。
「たいした器量でもない私を買って、父上の薬代と親子三人の生活の面倒を見てくれるというなら、
感謝しなくてはいけないのかもしれませんわね…。いっそここで返り討ちにあえば何も思い悩むことは
なかったんですけれど…」
「小太郎殿を亡くしたばかりで、そなたまで失っては生き甲斐を見失ってしまわれるだろう」
「ならば私は…」
意に染まぬ縁談でも遠からず承けなければならないだろうことは楓にも判っていた。病がちに
なってきた二人を安心させるにはそれしか道がないのだから。もしも小太郎が存命なら、剣術指南を
乞いにくる者に負担が掛からぬ程度の謝礼を貰うなりして、もう少しだけ生活を楽にしていくはずだった。
「あまりに窮々としていては嫁御の来手も有りませんわよ」と、兄をからかっていたのが随分昔のように
思える。
「…雨、止みましたわね…。そろそろ参ります」
「家まで送ろう」
「おかしなやつなのは貴方のほうです。自分に斬りかかった女に言う台詞じゃ有りませんわ」
「そなたの襦袢を見て母上が気を揉まれてはお気の毒だ。使い途をはっきりさせて差し上げるのが
孝行だろう、楓」
「……私、名乗りましたか…?」
艶のある声に名を呼ばれるだけで、とくんっと心の臓が早鐘を打つ。
「いや…。義就に聞いていた」
「私、貴方のお名前も存じませんわ。名前も知らない方に送っていただくなんて…」
「義彬。…最上義彬だ。名乗ったんだから送るぞ」
大きななりをして子供のような意地の張り方をする義彬の態度にくすりと笑みを零し、楓は頷いていた。
ラン光の場合 ⇒
蓮キョの場合 ⇒