シュガータウンはサヨナラの街
目覚ましはかけていたものの、結局それよりずっと早くに目が覚めていた。
大きくのびをしてベッドを抜け出す。カーディガンを羽織ってテラス窓のカーテンをシャッと
勢いよく開けると庭も近所の屋根も真っ白く様変わりしていた。前日東海地方を交通マヒに
陥れていた雪は関東に及び、一晩で街中を覆いつくしたらしい。
「雪のバレンタインって物語の中じゃロマンティックだけど、出かける身には地獄よね…」
概して東京住まいの者は雪道を歩くのにも運転するのにも慣れていない。
「パパ、タイヤチェーンなんか持ってたかしら…」
日頃こんなに雪が降ることも道路が凍結することもないのでスタッドレスタイヤは履いて
ないはずだ。
スキーの趣味はあるものの海外で滑ることが多いので、冬の備えがあるとも思えない。
「これは『行くな』ってお告げなのかしらね…」
誰のお告げかだかは知らないが。神様なんて別段信じてない。お正月には神社に初詣に
行くし、枯山水を愛(め)でに寺巡りもするし、クリスマスパーティも楽しむというごく普通の
日本人だ。
ずっとずっと迷っていた…。早くに嫁いでいった親友ふたりが羨ましくはあった。旦那様の
話を聞くのも、子供たちの成長を見るのも楽しくて、自分もという思いは確かにあった。
けれどその幸せのためにはここに置き去りにしなければならないものがある。それが
彼女に結婚を躊躇わせていた。
兄や姉のいる親友たちと違い、ひとりっ子だということが何よりネックになっていた。両親
ともに『好きな人が居るなら、一緒に暮らすのが一番』といつも背中を押してくれていた。
何しろ万年新婚ラブラブ夫婦だから、その想いは一入(ひとしお)なのだろう。
嫁ぎ先が国内なら…、いや、せめてこの地球上ならインターネット全盛のこの時代、電話
のみならずチャットだって出来るのに…。
電話もメールも届かない異世界に嫁いでいくのだ。踏ん切りがなかなかつかないのも
道理だろう。
数枚写真を見せただけ、あとは海が話して聞かせただけの彼のひととなりを信じて送り
出してくれるのだ。
物思いを遮るノックの音に「はーい」と応えると、カチャリとドアが開き、いつもと変らない
明るくて優しい母の声。
「海ちゃん、朝ごはんですよ……、あらまあ、まだ着替えていなかったの?」
「ええ。ちょっと外見てたから…」
「凄い雪ですものねぇ。都内でもあちこちチェーン規制がかかっているんですってよ」
ほわりと浮世離れした感のある母親の言葉に海が訊ねた。
「そういえばうちの車、スタッドレスタイヤじゃないわよね? パパ、タイヤチェーンなんて
持ってたっけ? 東京タワーまで結構あるし、規制に引っかかるかも…」
引っかかる引っかからない以前に、これだけ積もってノーマル装備では危険極まりない。
この辺りは住宅街でカー用品店も無ければガソリンスタンドもずいぶん離れている。
タクシーを呼べば済む話だが、かなり距離もあるので経済観念のしっかりした海には良しと
できないものがある。
「それでパパも困ってらしたんだけど、光ちゃんの一番上のお兄様がお電話下さって、
『よろしければそちらにお寄りしますよ』って…」
光の兄たちは甲信越方面にも車で出稽古をつけに行くことがあり、雪道の運転にも
慣れているという。
これからの暮らしに必要な物はたいていあちらに置いてあるが、それでも多少の荷物は
ある。そんな花嫁の付き添いを買って出てくれた光も昨日から実家に戻っているのだ。
その光を東京タワーに送る途中で迎えに来てくれるつもりらしい。
「ホントに!? 助かったー。他の物はともかく、あれをこの天気に持ち運ぶの、どうしよう
かと思ってたとこだったもの。ママが見立ててくれたドレス、綺麗なまま見せたいから…」
「うふふっ。きっと海ちゃんに惚れ直してくれるわよ、マスカットくん」
「もう、ママったら! マスカットじゃなくてアスコットだってば!」
ここに連れてくることが出来なかったのは幸いだったかもしれない。ナイーヴな彼のことだ。
悪気が無いのは確かなのだがこんなに何度も名前を間違えられたならいたく傷つくに違い
ない。海自身も昔は何度か間違えたが、それはこの際棚上げだ。
「送って貰えるならオシャレしても平気よね。シフォンのワンピースでもいいかな」
これから結婚式場へ向かう花嫁のような格好で行ったなら、アスコットはどんな顔をする
だろう。
フェリオなら聞いてるほうがこっ恥ずかしくなるほど甘ったるい褒め言葉をさらりと口に
するだろう。ランティスやラファーガあたりは言ってもきっと一言ぼそりぐらいだろう。シャイな
アスコットのことだから、真っ赤になってうわずりながら「綺麗だ」とかなんとか口走るのが
せいぜいな気がしなくもない。
「海ちゃんならどれを着ても似合うわ。さぁ、早くお支度しないと、光ちゃんたちが迎えに
いらっしゃいますよ」
「はーい」
ぺろりと舌を出して笑うと、海はウォークインクローゼットの服とにらめっこを始めたの
だった。
「殺風景になっちまったなぁ…」
部屋の中をぐるりと見回したフェリオが呟いた。
「そうかな?」
生活の拠点を遷すのは確かだが、城の用向きの時にはこれからもこの部屋を使うので、
それなりのものは置いてある。
「向こうはもう用意出来てんのか?」
「まあ、だいたい…」
これまでは手伝い(バイト)の立場だったアスコットだが、果樹園のオーナーから一区画
(といっても東京ドーム3個分ほどの広さはあるのだが)を分けてもらえることになり、その
敷地にある家をリフォームして海との新居にすることに決めたのだった。
「ここよりは街に近いし、足りない物があっても買いに行けるよ。僕一人で何でもかんでも
決めちゃったらウミに悪いし」
『どうしても!』という譲れないものに関しては、ソツのない海のこと、既に用意済みか海が
来るまで保留の指示をアスコットに出している。
「退屈になっちまうな…」
ランティス・光夫妻同様、海と結婚してもアスコットは城住まいをするものと思っていたら、
まさかの引越しだ。
一番心安い仲のアスコットが離れていくことがフェリオには寂しかった。
「何言ってんのさ。国事行為にフウとのデート、フェリツィア姫の子守…大忙しじゃないか」
「…それが不満な訳じゃないが、仕事と家族だけじゃな。友達ってのは、また特別だろ?」
フェリオにとってランティスやラファーガは信頼にたる存在ではあるが、彼らが友達かと
問われたら微妙なものがある。ランティスたちが臣下のスタンスでいるせいでどうしても
距離を感じてしまうのだ。かつてエメロード姫の親衛隊長を務めた彼らであればそれも
やむを得ないのかもしれないが。
もともと人付き合いの上手くなかったアスコットは、一人放っておくとカルディナともろくに
話さない引きこもりモードに入ってしまっていた。柱亡き後の崩壊し続けるセフィーロで
人々を避難させるのに手が必要だったこともあり、フェリオは意識的にアスコットをあれこれ
引っ張り回していた。
アスコットの意を汲んでセフィーロの為に尽くす魔獣たちが人々に受け入れられていくと、
そのことに安堵して引っ込み思案な招喚士も少しずつ人の和に加わるようになっていった。
きっかけが海との出逢いであったのは確かだが、姫の願いを叶えて魔法騎士たちが
消えた後の途方に暮れていたアスコットを引っ張ったのは間違いなくフェリオだった。
そういう意味で親友と呼んで差し支えない間柄だろう。
今でも魔獣は友達だと思っているが、魔獣しか友達が居なかったアスコットにとって、
それはひどく面映(おもはゆ)い言葉だった。
「果樹園に遊びにくればいいよ。お忍びは得意じゃないか、フェリオ」
「言うようになったよな、お前」
「週に一度は城にも来るし、急ぎならクレフかカルディナに呼んで貰えばすぐの距離なん
だからさ…」
「…これからは雇われじゃなく自分できりもりするんだもんな。遊んでる暇もないか…」
まるで拗ねてでもいるかのような口ぶりに、アスコットが笑った。
「暇がなくても僕で役に立てるなら来るよ。友達、だろ?」
「そうだな。友達のよしみで言っといてやるよ。夫婦喧嘩したら絶対先手必勝だ」
「…ケッコンシキする前からいきなり喧嘩の心配って…。それに先手必勝って、何さ。
まさか…フウに手を上げてるの!?」
「そんなことするか! 手ぇ上げたとこで緑の疾風食らっちまうよ。そうじゃなくて、
先手とって謝れってこと! 意地張るとこじれるだけだからな」
「言われなくても…」
どう贔屓目に見ても夫がかなり年上のランティス・光夫妻、同い年感覚のフェリオ・風夫妻
と違い、アスコットより海のほうが姉さん女房といった雰囲気が強い。初めて出逢った時の
年齢的上下関係を未だに引きずっているのでたいてい海に言いくるめられてしまうから、
実はこれまで喧嘩になるほど対立したことがないのだ。
一から十まで海任せとは言わないが、海が仕切ることで特別困ることもない。ムチャぶり
されたら、その時はその時だ。
「ケッコン生活の大先輩の言葉だから一応聞いとけって」
まだ五年と経っていないのに大先輩とはふかしたものだが、アスコットは苦笑いして
『はいはい』と軽く受け流していた。