Stay by my side vol.2
執務室(兼私室)に近いバルコニーでランティスは漆黒の精獣を招喚した。風を纏って姿を現したそれはいつもより
元気のない光を励ますようにみつあみ髪をはんだ。
「エクウスったら、髪噛んじゃダメだよ。くすぐったいってば」
愛馬にほしいままにされている光を取り返すようにして抱き上げて鞍に乗せる。自分もひらりと跨がり華奢な
身体をしっかりと左腕に収めて、ランティスはセフィーロの空へと駆け出した。
まだ残暑はあるが秋の空は高く澄み渡っている。眼下に流れゆく草原の速さが、光の中で寂しさに変わって降り
積もってゆく。
『アスコットの魔獣さんはこんなに速くなかったから、飛んでくような風景ももう見納めだよね…』
どんな魔獣より、どんな精獣より速く遠く駆ける≪跳ね馬≫フェラーリと契約を交わせる者はそう多くないらしい。
光たちが知っているのはランティスと、かつて刃を交えたアルシオーネぐらいのものだ。魔力の高さで言えばクレフも
交わしていそうなものだが、気難し屋同士でソリが合わなかったのか彼の手元にはいないとのだという。
時間さえあればランティスは光を跳ね馬で連れ出してくれていた。ランティスが跳ね馬に名前をつけてないことを
知ると、東京で辞書やら何やらひっくり返して、彼(光は勝手に『彼』だと思い込んでいるのだが)に相応しい言葉を選んだ。
その選び抜いた結果がラテン語で馬を意味するエクウスだということには、海と風からは少ぉし首を捻られてしまった
けれど。実はランティスも海たちの反応に多少の共感は覚えていたのだが、余程のことでなければ光の決めたことに
彼が否と言う筈もなく、跳ね馬も嫌がるそぶりを見せなかったのでそのまま決まってしまった。
今まで光が当たり前のように見てきた景色を海も風も知らない。それどころか気難し屋で名高い跳ね馬は、緊急
避難的な場合を除き契約者以外を乗せないのだという。触れさせることも、ましてやじゃれつくことなど稀有なことだと
クレフも驚いていたほどだ。
嫌がらないのは良しとしても、その理由を思い巡らし微かに表情を曇らせたランティスに、光はわざとらしいほど
屈託のない笑顔を見せたものだ。
「何を心配してるんだ?深い意味なんてないんじゃないかな。どうしてだか知らないけど、私、もの凄く動物ウケが
いいんだ。多分そのせいだよ」
「本能で近いと見抜いてるんだわ…」
「野性の血が教えるんですね」
居合わせた海や風のかなりの言いようも、ランティスが少しでも笑ってくれるならと受け流した。
――そう。少しでも、笑ってくれるなら……
初めて逢ったランティスはとても無表情な男性(ひと)だった。それも当然だろう。たった一人の兄を失い天涯孤独の
身になったばかりだったのだから。
真夜中の噴水のほとり、二人きりで言葉を交わした夜の苦しげな顔はいまも光の胸の奥に灼きついている。彼の
兄の生命を奪った光を責めることなく、気づかってさえくれた人。「無口・無表情・無愛想」というのが一般的な
ランティス評だが、光にはとてもそんなふうには感じられなかった。低くて優しい声はいつだって光の些細な疑問にも
答えてくれた。声を立てて笑ったり、クレフのように癇癪を起こしたりはしないけれど、晴れた日のセフィーロの空の
ような蒼い瞳は彼の心の有りようを光に教えてくれていた。
陽光にきらめくクリスタル細工の如き城を取り囲む絶えることない涌き水と、セフィーロ再生直後からその外に
広がり続ける草原。地球では地殻変動でも無ければ有り得ないことが、当たり前に起きる不思議な世界・セフィーロ。
今ではすっかり慣れてしまって、光たちも少々のことでは驚かなくなりつつある。
『セフィーロの…、ううん、オートザムやファーレン、……チゼータのみんなの望みも受けて広がっていく草原…。
私の望みは……』
いつもなら草原を走る野生動物などを目敏く見つけてはしゃぐ光がひどく物静かなので、ランティスは護る腕に力を
込めて尋ねた。
「・・・何か、あったのか?」
天上から降るような声に、光の意識が引き戻される。
「えっ…?…何が?」
『何かあるのは、ランティスのほうじゃないのか?』と、胸の奥底に蠢く言葉が喉につかえて声にならない。
「兄上に叱られたのか?」
「ううん…(ランティスも兄様に叱られたことあるのかな…?)」
「…友と諍いでもしたか?」
「そんなことないよ(友達と喧嘩って、想像つかないや…)。どうしてそんなこと聞くの?」
「いつもより静かだ」
空を吹く風に攫われないようにまたぐっと抱き寄せたランティスの腕の強さに、光は少し泣きそうになる自分を
誤魔化していた。
「あははは、やだなぁ。私だってたまには考え事ぐらいするんだよ」
「…すまない…」
「別に、ランティスは謝るようなことしてないのに、…変だよ…」
「・・・すまない」
こんな時、なんと言えばいいのか判らないランティスがまた同じ言葉を口にしていた。
言いたいのはそんな言葉じゃない…
聞きたいのはそんな話じゃない……
聞きたいの…?
私は本当にそれを聞きたい?
いつ、誰に…?
クレフ…?
それともプレセア…?
伝言ゲームみたいに
海ちゃんか風ちゃんから……?
時折オートザム時代のことをぽろりと(多分わざと)教えてくれる
イーグルから……
それともタータかランティス自身から……!?
もしかしたらそれすら聞かされることなく
ある時セフィーロに来たら
「そうそう
この間、ランティスとタータの婚儀があってね
とても盛大だったんだよ」
まるっきりの他人事のように
(そりゃあ確かに他人なんだけど)
そんなふうに知らされるんだろうか……
気づくとそばに居ることが
当たり前になっていた
人々で賑わう町へ
時にはこの世界の果てへ
こんなふうに連れて行って貰えることを
当たり前のように思ってきた
それが、ずっとずっと続いていくと思っていた……
ランティスがただ移動の足を持たない遠来の
ちょっと特別な客をもてなしているだけのつもりにせよ
他の女がこんな風にその腕に護られているだなんて
きっとタータはいい気がしないだろう
誰もそんな御注進なぞしないかもしれないが
他の誰でもない自分が、どうにも後ろめたかった
「……帰る……」
「…?」
「……」
風に紛れて聞き取れない光の呟きにランティスは愛馬の脚を止め、顔を覗き込もうとするが、視線を
避けようとする光が目一杯俯くので表情が読み取れない。
「ヒカル…?」
「休み明けに提出する課題、学校に忘れたこと今思い出したんだ。すぐに帰って学校に行かなくちゃ…」
ここ数年の魔法騎士たちとの交流で、地球の学生が明けても暮れても試験や宿題に追われていることは
ランティスも知っていた。いつもより元気のない風情も、その疲れのせいだったのだろうかと深くは追及しなかった。
高校受験の頃にはメディテーションを施して手助けしたこともあったが、光自身の心身の成長の妨げになっては
いけないといまは自戒もしていた。
「あの二人と一緒に帰るなら、王子とアスコットに知らせるが…」
ランティスの申し出に、光は首を横に振った。
「ううん、デートの邪魔しちゃ悪いよ。二人にはメモ残してくから…」
城のバルコニーに降り立つと、エクウスは光の気を引こうとするかのように頬に鼻面を寄せた。
「ごめんね、せっかくご主人さまに呼んで貰えたのに、すぐ逆戻りで…。ランティスに時間があるなら、遠駆けでも
おねだりしてごらん…」
『セフィーロの空を駆けることは、多分もうすぐ…なくなるんだから…』
剣術指南をする時や辺境へ出る時、ランティスは漆黒の鎧姿であることが多い。漆黒の精獣と一体となり
セフィーロの蒼穹を裂くように疾駆する魔法剣士の姿を、あと何度見ることが叶うだろう。光の知らない、遥かな
異国の空を往く頃には、言葉を交わすことも出来ない遠い存在になっていることだろう。いくらタータとも知己
とはいえ、これまで通りに振る舞っていてはチゼータの者たちの誤解を招くことは請け合いだ。
そんなことになってしまったら、これまでよくしてくれたランティスにあまりに申し訳がない。ランティスは頓着しない
たちのような気はするが、遠き国から姫の夫に迎えた者に女の影などちらついては王家の面目丸潰れになろう。
チゼータ王家の直系はタトラ・タータの姫二人だ。姉姫を差し置いて婿取りの話が出ていると言うなら、その伴侶
としていずれプリンス・コンソート(王婿殿下)と呼ばれる立場になるかもしれない。
タータと、そしてタトラとその伴侶らと、チゼータを繁栄に導く貴人になっていくのだろう。
止まらない自分の思考の奔流に、光は眩暈がしそうなほどだった。
「…ヒカル…?」
エクウスの轡を両手で掴んで、その鼻筋に額を押し当てるように光はずっと俯いていた。心なしかいつもより小さく
見える光の肩に、ランティスが気遣うようにそっと触れた。
「気分でも悪いのか…?」
『どこへも行っちゃやだなんて、ちっちゃな子供みたいなことは言えない…。第一、私にはそんなこと言う権利もない。
メディテーションの最中に昔のこと思い出して泣いた私を抱きしめてくれたこの腕に、もう縋ったりしちゃいけないんだ。
しっかり、しなくちゃ・・・・・』
「ごめん。何でもないよ。課題が全然手付かずだから、ちょっとクラクラしちゃったんだ」
「……」
取ってつけたような光の言い方に、ランティスは何か言いたげな顔をしていたが、気づかぬそぶりで笑顔を作った。
「いつもわがままばかりでごめんなさい。…ありがとう・・・・さようならっ」
まるでもう二度と逢えない人のような言葉を残し振り切るように駆け出した光を、追いかけたい衝動に駆られたが、
学生の本分である学校のことを放り出してまでここにいろと言う訳にもいかないので、ランティスはそのまま思い
とどまっていた。
「ガッコウのカダイというのは、そんなに深刻な物なのか…」
朴念仁と評される男には、年頃の娘の感情は量り難いようだった。