Station Aquarium
『見事に真っ白やな…ほな100,000,000円っと』
ほっそりとした白魚のような指の間からシャープペンシルを取り上げ、掛け持ちしている自分のクラブ二つの
予算欄に法外な金額を書き込む者がいた。いかに名門私立でもチアリーディング部とダンス部に一億円ずつ
配分するなんてことはないだろう。ゼニカネに煩いことで知られるキャンディピンクの髪に褐色の肌のその娘も、
『一、十、百、千、万…』と、自分が書いたゼロの数を読みなおしていた。
「チアリーディング部長、議事録偽造はいけないことだと思いますわ」
「そやかてこないに真っ白やねんもん。好きにしてええっちゅーことかいなと思うのが人情やろ?」
すぐそばで聞こえたそんな会話にようやく意識の戻ったシャープペンシルの持ち主が、他人の筆跡で書かれた
数字に小さな悲鳴を上げた。
「に、二億円…!?」
企業予算じゃあるまいし、一年間のクラブ活動予算にしては桁が違いすぎる。
「空お姉様、ご心配なく。チアリーディング部長のちょっとしたいたずらですわ」
「風さん…」
『きっぱり本気やってんけど』という呟きを受け流し、クラス委員長として生徒会の予算会議に出席していた妹が
手元のノートを差し出した。
「体調がすぐれなかったのですか?なんだかずっとぼんやりなさっていたようなので、一応メモをとっておきました」
メモといいながら、議事録並のきちんとしたものだ。
「ありがとう、風さん」
「優等生の妹はこれまた輪ぁかけた優等生かいな…」
妹から受け取ったメモを手に、聖レイア学院生徒会書記の鳳凰寺空はため息をついた。
「駄目ですわね、こんなことでは…」
「ずっと生徒会長見てましたよねぇ。見ているこっちがせつなくなるようなまなざしでしたよ。副会長(ランティス)ほど
じゃないにしろ、生徒会長も朴念仁の部類だからなぁ…。貴女を哀しませるようなことでもしでかしましたか?」
「まぁ、何のお話か判りかねますわ、文化部部長さん」
妹の手前でもあるので、空は韜晦することにした。
「そんなことを口に出すあなたも大差ないように思えましてよ?困った方…」
緩いウェーブのマルーンの髪に隠れて、薄い金茶の髪に黄金色の瞳の美少年の二の腕をこっそりとつねきるのは
フラワーアレンジメント同好会代表のタトラ・ヴィヴィオだ。
「これは失礼」
見事に痛点をついた指先を外しつつ、文化部長のイーグル・ビジョンが苦笑していた。タトラはポンッと手を叩くと
にこにこ笑いながら提案した。
「そうだわ、三人でお茶にしましょう!」
「…三人…?」
空が小首を傾げた。いまこの場には少なくとも五人いるのだ。
「クウとカルディナと私。参加資格はレイトティーンズ(ハイティーン)の女子だけ。ね…?」
「でも遅くなるのは…」
大まかな帰宅時間を告げて来ている空が言葉を濁す。
「空お姉様が遅くなること、私がお母様にお伝えしますわ。今のお姉様には、お友達とおしゃべりしてくつろぐ時間が
必要に思えますもの」
「ええことゆうやん!」
「それじゃあ少しだけ…」
議事録を受け取ろうと待っていた覚が空に声をかけようとすると、すっと立ち塞がったタトラがポケットから取り出した
ミニシンバルをシャーンと打ち鳴らした。
「はーい、そこまでよ。今日の生徒会長はクウの50cm以内に近寄っちゃダメ」
「どういう意味かな、フラワーアレンジメント同好会代表?」
「どないもこないも、そのまんまの意味や。自分の胸に手ぇ当ててよぉ考えてみ!」
二人に喧嘩を吹っかけられたような格好だが、心あたりがあったからなのか騒ぎを大きくしたくなかったからなのか、
覚は二人の言い分を受け入れていた。
「解った。明日の朝、僕の机に置いててくれればいい」
「…はい」
目線を伏せたままの空にかけようとした言葉を飲み込んだ覚が背を向けると、イーグルがその背中をバシッと叩いた。
「お嬢さんがたが女子会を開くなら、こっちはこっちでやりましょう。ジェオ、オレンジ・シフォン出していいですよね?
ランティス、逃げちゃいけませんよ!」
覚(というより獅堂三兄弟)とランティスのビミョーなあれこれを承知の上で呼び止めるのかとじろりと睨みつけたが、相手は
そんなことの堪えるようなタマじゃない。
「『明日は我が身』って言葉があるでしょう?後学の為においでなさい。ジェオ、逃がさないで下さいね。漕艇部長も
どうです?」
「球技大会で部活が休みの間に艇のメンテナンスをしなきゃならんのだ。すまんな、また誘ってくれ」
漕艇部の練習場所は学院敷地端の小型機専用滑走路の地下にある人工河川なので、この場凌ぎの出まかせでも
確かめに行く物好きはいない。
「きっとですよ。クレフはどうです?」
「球技大会の為にこき使ってくれるバカ(ランティス)がいるせいで古傷が痛んどるんだ。リハビリに行くので遠慮する」
古文書解読愛好会代表のクレフ・クロノスも体よく断りを入れていた。
「残念だなぁ。じゃあ剣道部長、兄上を拉致らせて貰いますのでヨロシク」
肝心の覚の返事はお構いなしで、脱走準備疑惑のランティスはジェオにしっかりヘッドロックをかけられ、壁のごときな
四人組も生徒会室から姿を消した。
「ローズヒップを淹れてみましたわ。さあ、召し上がれ」
「ありがとう」
口をつけた空が小さく笑う。
「美味しい…」
「それにしても見事なぼけっぷりやったなぁ。生徒会長と喧嘩でもしたんか?」
「喧嘩なんて…別に」
「そぅお?会長のあの表情はやましいところ有りと見たわ」
「少しはそんなふうに思ってくれてるのかしら。今度の日曜日、一緒に私立学校合同文化祭準備会に行く予定だったのだ
けれど、『悪いけど一人で行ってくれないか』って…」
「会長がすっぽかしてどないすんねん。で、何の用事があるんやて?」
「剣道部の方でないとご存じないかもしれませんけど…。≪聖堂戦≫って聞いたことあります?」
「なんやのん、ソレ…」
「聖レイア学院の≪聖≫と堂浦高等学校の≪堂≫の頭文字をとってるんです。十年ぐらい前、たまたまどちらの学校も
獅堂流出身の師範の方が指導者になった時期があって、その縁で定期交流戦が行われるようになりましたの。いつもなら
獅堂流総師範でいらっしゃる覚さんのお父様が観戦・総評されるらしいのですけど、支部の新規立ち上げでヨーロッパに
いらしたらしくて…。その代わりに」
「総師範の息子ゆうたかて高校生やん…。総評やなんて、えらい偉そうやなぁ」
「総評はされるかどうか判りませんけど。午後には私立高等学校連盟生徒会役員交流会って茶話会もあって…。途中で
森林公園の美術館に寄って開催中の特別展を見てランチして…って考えていたのだけれど、『移動が遠くなって一人じゃ
心配だから、午後の分はランティスに行かせるつもりだ』って…」
「森林公園の美術館というと、ルノアール展をやっていたかしら…」
顎に人差し指を当てながらタトラが呟いた。
「私はもう見ましたけれど、覚さんも興味があるふうでしたから。途中下車になりますけど通り道だからと思ってチケットを
買っていましたのに、ふられてしまいましたわ」
「そんなん黙っとったらあかんやん。しっかりチケット二枚分と慰謝料ふんだくらな!」
「慰謝料なんて、そんな…。チケットはもう妹に譲りましたし、覚さんに頼まれてた訳じゃないんですもの。私が勝手に
一緒に行けたらいいなって考えていただけで…」
「まぁウチのラファーガもあれこれお膳立てしてくれるようなタイプやないさかい、ありがちなパターンやけど。ウチが練りに
練ったお出かけプラン、ぶち壊しにしてくれたことは、いっぺん(一回)やにへん(二回)やないわ」
「そういう時に黙っているようなカルディナじゃないでしょう?うふっ」
「当たり前やないの!準備にかけた時間と労力もさることながら、この盛り上がってた気分をどないしてくれるん!?って
思うやろ?腹に溜めとくのは性に合わんさかい、その場でドッカ〜ン!といくんや」
「・・・・・」
「…同じことをクウが出来るとは思わないけど、いま感じていることを素直に話したほうがいいんじゃなぁい?」
「カルディナさんたちはステディですもの…。ぶつかり合えるだけの絆があるのだと思いますわ。でも…私たち、別に
そういう仲じゃ、ないし…」
とぎれとぎれに、次第に小さくなる告白の声に、カルディナがあんぐりと口を開けていた。
「ハァ?学院一のおしどり老夫婦みたいなアンタらが…?」
「ろ、老夫婦…?」
「カルディナったら、的確過ぎますわ。もう少しぼかして差し上げないと…」
イーグルがこの場にいたらさっきのお返しにタトラのほっぺたをつつきそうなぐらいの酷い言い草だ。
「舞踏会かてLibra≪天秤宮≫(中等科一年)からずっとパートナーチェンジもしとらんて聞いてるで。なんちゅうても多感な
お年頃やさかい、毎年のように変わるのもザラやのに」
「覚さんは幼稚舎から一緒だし、クラスで一番穏やかで紳士的だったんですもの…」
最終的にパートナーが決まらなかった場合のエスコート役あみだくじか、個人的に付き合いのある上級生から
誘われる場合を除けば、デビュタントとなるLibra≪天秤宮≫生同士でパートナーを探すのが基本ではあるのだ。
『どっちもどっちな程度にしか踊れなければ、恥をかいてもお互い様』という訳だ。ところが学院内デビュタントの
一人でありながら、なまじ踊れてしまう空をパートナーにしたがるクラスメイトは練習でもいなかった。一方的に
恥をかくのが確定なところに飛び込む物好きな男はいないものだ。
そして毎回シャッフルするはずの練習パートナー選びでいつも最後のほうまで残ってしまう空に、『今日も君の
足踏んづけたらごめん』と言いつつ、少し照れくさそうに手を差し延べていたのが覚だった。
今でこそ華麗なリードを見せる覚だが、本人が興味を持たなかったせいもあり、中等科に上がるまで一度も
学外で習わなかったことで酷い有様を呈していた。
「おーい獅堂、鳳凰寺さんに柔道やらせてんじゃないよ」
「うるさいな。僕より踊れるようになってから言え。誰がやっても五十歩百歩だろ?」
「ねえ鳳凰寺さん、足を踏まれた回数x百円の罰金取ったら?湿布貼らなくちゃ腫れちゃうわよ」
「ダンス練習期間に覚のこづかいがすっからかんになることに一票!」
「湿布が必要ならうちの救急箱から持ってくるから、罰金は勘弁してくれないかな…」
「そこまで踊れなくて、お前、よく鳳凰寺さんの手を取れるよな…。心臓つえぇわ」
「男たるもの鋼鐵の心臓でなくてどうする。日頃から鍛えておかないと、心拍機能が上がらないんだよ」
「そういうもん?俺なら恥かくより運動で鍛えるほうを取るね」
同級生らの非難とからかいの声にもめげず練習パートナーを務め続けた覚は、そのままその年のミニ薔薇の
コサージュを空と交換することに成功したのだった。
「あら…、男女別に練習してるんじゃなかったの?ワルツ」
「それは自分の経験も踏まえて覚さんが当時の生徒会長に提案したからですわ。そんなお話をしたせいなのか、そのまま
生徒会業務に引き込まれてしまって…」
「なぁんや策士っぽいなぁ、その生徒会長とやら」
「その弟さんなら私たちの同級生でしてよ。策士というより、お昼寝ばかりされてますけど」
「・・・今日も生徒会長に『そこで寝るな!』って、三回ほどチョークを投げつけられてたあの方のことかしら」
「学院創始者の曾孫でもありますわね、あのご兄弟…」
「全弾キャッチしとったから、ホンマに寝てた訳やないんやろけどな」
ランティスの名誉の為に言えば、空と覚の間に位置する席にいて、ほうけたように覚を見つめる空の視線が気になって
仕方がないから目を閉じて避けていたに過ぎない。(ホントか…?)
「……『好きだ』とか、そういうこと言われたのじゃなくて、幼なじみで一番親しみやすかったから……」
「い〜っぺんも言われたことないん?ただのいっぺんも!?」
「そんなに強調しないで…」
「あながち外れてはいませんでしたわねぇ…。朴念仁疑惑」
「ニッポンの男は口下手やゆうけど…、まんまやな。まぁウチのラファーガもそういうんは得意やないけど」
「あらぁ、そうなの?私はよく聞かされてますわ。うふふふっ」
「ウチらと同い年で、美辞麗句をあんだけスラスラ口に出来るあの兄ちゃんが規格外な気ィもするけどな。それにしたかて、
いっぺんはっきりさしたらどないや、クウ」
「はっきりって?」
「おとん(お父さん)の代理もあるんかしらんけど、いっちゃん(一番)下の娘(コ)も確か剣道部入ったわなぁ、今年から…」
ちらっとカルディナが視線を流すと、空が微かに顔を背けた。
「最近チビ二人と妹に構い倒してるやろ?ちゅーか、妹に急接近のランティスと張りおうとるやん」
「一番下の女の子だから気にかけてらっしゃるだけですもの。それに覚さんは弟さんたちより控えめですわ。ご自分でも
『ザマがない』って、反省なさってましたし」
「反省だけならサルでも出来るっちゅーの!そないに甘やかしてたらあかん。ウチと妹とどっち取る気なんや!って、
ガツンといかな」
「そんな大人げないこと、私……」
「なぁんもほっぽり出せゆうんやなし。去年あんだけぎょうさん綺麗どころに誘われてひとっつも浮いた噂の出ぇへんかった
朴念仁やったら、安全牌やと思うけどな」
「朴念仁同士の同族嫌悪?…とまではいきませんわね。日ごろは仲良しさんなんですもの」
困ったように小首を傾げていたタトラが、ポンッと手を叩いた。
「……朴念仁を恋人にすると苦労が絶えないとご心配なのですわ!クウみたいに」
「…ですから、はっきり『恋人』という訳では……」
改めて向き合ったその事実に空はぐらぐらと揺さぶられている。
「ほな言いかた変えよ。クウはどない思うてんのや?生徒会長のこと。毎年ハチマキ作ったって、ミニ薔薇のコサージュ
交換してきたんは、好きやったからとちゃうんか?他のヤツにするのがめんどくさかっただけなんか?」
「面倒だからだなんてそんな…。私、覚さん以外の方なんて…」
古くから名門と称される鳳凰寺家の現当主の子供は空と風の娘二人だ。既に家督を譲り隠居生活の先代当主は男子を
なせなかった嫁に長らくちくちくと嫌味を言い続けてきたが、年齢的に諦めたのか最近はその矛先を空に向け始めていた。
曰く、『女に学問など不要、大学に行かずに婿を取れ』と。鳳凰寺姉妹の優秀さを知る者であれば、その時代錯誤な発言に
呆れ返るだろう。家柄が家柄であり、娘二人の長子として空は両親と何度か話し合ってはいた。その度に『鳳凰寺の名が
残らなくとも、お前たちが幸せになればそれで十分だ』と父は鷹揚に笑い、『いい方がいらっしゃるとよろしいですわねぇ』と、
母はいつも少し訳知り顔で微笑んでいた。
幼稚舎から高等科に至るまで、何度もPTA役員を引き受けてきた母は当然のように覚たち獅堂四兄妹のことも知っている。
とりわけ覚と光は姉妹と同級ということもあり、遊びにきたことも少なくない。空がずっと球技大会のハチマキを覚に渡して
いることも、≪ちいさき薔薇の舞踏会≫で覚にエスコートされていることも母は知っている。だからこそあんなふうに笑んで
いたのだ。獅堂家は三人もの男子に恵まれていたので、一人ぐらい婿養子に出すこともやぶさかではないかもしれないが、
覚もまた長子であることが話をややこしくさせていた。
獅堂流総師範の長男であることを差し引いても、剣道をしている覚は凛々しく、本当に好きなのだろうなと見ている者にさえ
伝わっていた。試合であれ練習であれ、そんな覚を見ることが空は大好きだった。だからこそ『剣道を捨てて、鳳凰寺家の
事業を差配して』などとは言えなかった。がつがつとした野心家であれば、他人から奪ってでも欲しいチャンスだろうが、
覚がそんな男なら空が想いを寄せることもなかっただろう。
「どうしたらいいのか、自分がどうしたいのか判らないの……」
いつもの聡明さが消えた頼りなげな空の肩をタトラがそっと抱き寄せていた。
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堂浦高等学校…某県立高校。光岡自動車のドゥーラ(Dore)より
このお話の壁紙は Tohmin熱帯魚さま よりお借りしています