恋人がサンタクロース
下界の騒ぎを知りもせず…樹のてっぺん近くで足をぶらぶらさせながら
光はランティスを待ちわびていた。
「怪我はないか?ヒカル…」
「バサバサ派手な音してたけど…地球の樅の木より葉っぱが柔らかい
みたいだからホントに大丈夫」
心配そうな蒼い瞳に、殊更に明るい声音と笑顔で応える。
ほうっと安堵の息を零したランティスが馬上に招こうとしたが、光は
伸ばしかけた手を不意に引っ込め、きゅっと拳を握りしめて蒼白い鬣を
揺らめかせるものに訊ねた。
「もしかして……こういうことに喚び出されるのは嫌なのか?エクウス」
敢えてランティスにその意向を訊ねることはせず、光はじっとその聖なる
ものを見つめていた。
「契約を結んでもいない私の願い事を聞くのなんて嫌だから、ポンポン
投げるのか…?」
重ねて問いかける光を、跳ね馬は静かに見据えている。
「エクウスが嫌だったら…もうしないよ。甘えてないで、ちゃんと、
自分でなんとかするから…」
ほんの少し前……。永きを渡る精獣にとってはうたた寝を貪る間もない
ほど僅かな時を遡ったこのセフィーロに、誰に頼ることも甘えることも
許されなかった孤独な姫が居た。たゆとう金色の髪の姫だけではない。
その座を継ぐ者はみな、セフィーロのあらゆるモノから尊崇と敬愛の念を
抱かれながらも、凍てつくような孤独を身のうちに抱えていた。
全てのモノに等しく注がねばならぬ愛は、あまりに均一過ぎて時に無とも
見紛(まご)う。当たり前のように享受するモノがではなく、与える者が
そう錯覚してしまうのだ。
その揺らぐ心を映してたちまち均衡を崩してしまう美しくも儚い世界に、
自らの未熟さを叱咤し、ひたすらに律し続けながら…。
或る者は身を蝕まれ、或る者は心を苛まれ…。終(つい)には己の消滅か
世界の終焉かの天秤に両腕を縛られし者がその真紅の瞳の娘をこの世界へと
誘った。
その座にありし者が己の生命と引き換えに世界の存続を叶えはしたが、
それは事実上新たな人柱を建てたに等しきことと思われていた。
力を合わせ苦難を乗り越えてきた友を奪われ悲憤に駆られる者…、
縁(ゆかり)なき地から拐(かどわ)かすように連れてきた娘さえ
人身御供にしてしまった創世主への怒りをあらわにする者…、
胸に秘めた決意からその座を目指しながら叶わなかった者……。
そこに居合わせた者たちの様々な想いが交錯する中で、新たな人柱と
目されたその娘はいともあっさりと見えない鎖を断ち切っていた。
無論全ての鎖を完全に断ち切れた訳ではなかったが、ひとりぎりぎりと
絞め上げられて身を引き裂かれることのないように、そこに集う者たちの
力添えを願ったのだ。
皆が暮らす世界なのだから、皆で支えていけばいいと……。
夕陽に染め上げられたような紅い髪の娘の住まう地ではごく当たり前の
考えかたであったのに、この地に生を享(う)けた者たちにとっては、
雷に撃たれるが如きの天啓であったという。
その娘が…獅堂光がいうところの『皆』のくくりには人間はもとより
精霊、精獣は言うに及ばず魔獣や動物たちまでもが含まれていた。
植物どころか微生物でもこの地に生まれて不要なものはないはずという
考えらしい。
自ら動くこともままならない物や意思があるかさえも怪しい物に比ぶる
べくもなき高処(たかみ)に在るものとして、新しき世界の秩序を打ち
立てていく為の助力は吝まないつもりでいた。
つもりではいたのだが、生まれが異世界であるからか、はたまた市井の
民の出であるからか、跳ね馬にしてみれば酔狂を通り越してもはや頓狂の
域に達するほど異な事をこの娘はさらりと口にするのだ。
凍りつくほどの孤独を抱えた姫も知っている。拭いきれぬ罪悪感と絶ち
きれぬ思慕に患い窶(やつ)れた姫も知っている。だからこそこの契約者を
して成し得なかった悲願を果たした娘の力添えになることを拒むものでは
ないのだが、精獣たる跳ね馬の矜持を瑕つけるものも少なからずあった。
僅かな意趣返しぐらいは大目に見て然るべきであろうと突き放したい…
突き放したいのだが、そのまなざしが悲しみにけぶることがいたたまれない。
まるで自分が残忍無比な魔物にでも零落(おちぶ)れた気分にさせられて
しまうのだ。
傅くつもりはない。おそらくこの娘はそんなことを望んでもいないだろう。
あらゆるモノに対して隔てなく接しているのだから。
黒衣の魔法剣士もこれにはからきし弱いが、それを鼻で笑えぬほど跳ね馬も
この娘の涙には弱いのだ。空を蹴って歩み寄り、ひらひらとした布切れを
食(は)んで、悲しげな表情(かお)を崩そうと戯れかけてみせる。
普段このような戯れ事を好まぬ契約者も、いまはただ成り行きを見守って
いた。
その場限りの執り成しで収めるより、徹底的に相互理解を深めればいいと
でも思っているのだろう。和睦に至ろうろうが決裂に至ろうが、その結果を
受け容れるとでも決めているようだ。
「エクウス…嫌だったら嫌って言っていいんだよ?ランティスの精獣さん
なのに、私があれこれお願いするのはおかしいんだよね…?」
跳ね馬は並み居る精獣の中でも特に気位が高く、かつ気難しいのだと
クレフに教わったことがある。招喚契約を結べる者がさほど多くないのも
そのせいだ。契約を結んでも荒馬を一から馴らすほどに苦労が絶えないのだ
という。
ランティスが一緒にいるとはいえ、光を連れた遠駆けなどもあまり
嫌がらないのをクレフが不思議そうにしていたぐらいだ。
余程無体なことでもなければ、ランティスは光の望むことに否と言わない。
だが、だからと言ってそれを望まないエクウスに自分が押しつけることは
間違っていると光は考えていた。
気遣わしげなまなざしで「自分でなんとかするから」などと口にする癖の
ある赤毛の娘に、似ても似つかない流れる黄金色の髪の姫君の姿が重なって
見える。
あんな末路を辿るのはあの姫で最後にしなければならない。それはその
最期に生命を捧げた真白き羽根馬が漆黒の跳ね馬に遺した願いだった。
そしてその願いは漆黒の跳ね馬自身の願いでもあった。彼の契約者をして
永く果たせかった悲願を叶える為の道標を、なんの気負いもなくさらりと
示して見せた異世界生まれの娘があの時どれほど眩しく見えていたか、
きっと当の本人は生涯気づかないだろう。
その娘が笑みを絶やさずにいられるよう黒衣の魔法剣士が護るというなら、
応招に値すると認めた契約者の為に進んで手を(脚を?)貸す覚悟を決める
べきかもしれない。
殊更に意にそまぬ申し入れを受けたなら、少しばかり契約者をからかう
ぐらいは許されるだろう。
人間界にだってやつあたりとかいう言葉がある。それを真似て何が悪いと
人馴れした精獣が心密かに嘯いた。
鞍上の魔法剣士の手を取ることをためらっている娘の袖口を軽く噛み、
跳ね馬は誘うようにくいくいと引く。ようやくちいさな笑みを浮かべた光の
手をランティスはしっかりと握ってぐいっと引き、瞬く間にその腕の中に
収めていた。
「飾りを取りに降りるぞ」
「うん」
光の心に芽生えかけていた僅かな躊躇いを溶かすように、ランティスは
華奢な身体を抱きしめる腕に力を籠めた。
エクウスがカツカツと蹄の音を響かせて降り立つと、イーグルがにこりと
爆弾を投げつけた。
「迎えに行くだけにしちゃ、ずいぶんゆっくりしてましたね。困るなぁ、
こんなことろでまでいちゃいちゃされちゃうと…」
ランティスと並んでイーグルたちの方に歩いてきていた光が頬を真っ赤に
染めて声を上ずらせた。
「い、い、いちゃいちゃなんてしてないったら!誤解だよ、イーグル!」
狙いどおり、わたわたと見事に茹で上がった光と不機嫌オーラ湧き上がる
ランティスを見比べたイーグルがくすくすと笑いだし副官に呆れられていた。
「からかってやるなよ、イーグル…」
「客人放置でしっぽりやってるなんてあんまりでしょう?僕らは友人
だから大目に見ますけど、導師や王子の名代も務めるんだからその辺は
きちんと弁(わきま)えてしかるべきじゃありませんか」
もっともらしいイーグルの言もランティスは右から左で受け流しているが、
光のほうが黙っていられなかった。
「違うんだ、イーグル!ランティスは何にも悪くないよ!私がぐずぐず
してただけなんだもの」
真っ直ぐに見つめてくる光の瞳に戻ってきた力強さにイーグルが微かに
笑んだ時、後ろから並脚で付き従っていたエクウスが軽く駆けだし、追い
越しざまに光のスカートの裾を引っ掛けていった。
「うきゃあっ!?」
悲鳴を上げてスカートを押さえた光の目の前では、酸欠がこたえて座り
込んだまま成り行きを見守っていたザズが「うぉわっっっ!?!?」と
驚愕とも歓声とも判断しかねる声をあげ、ランティスに氷柱のような鋭い
一瞥を突き立てられていた。
「ま、待てっ!オ、オレは無実だかんなっ!捲ったお前の馬の罪のが
絶っっ対重いだろ!?」
ツンドラ級のまなざしならまだ凌げるが、このうえ稲妻招来なんて
ブチかまされ日にはたまったものじゃないザズが必死に弁明を申し立てた。
真冬だというのにたらたらと汗をかく(当然冷や汗だが)ザズが気の毒に
なり、光は逞しい腕にしがみついてランティスの顔をじいっと見つめた。
「あ、あのさ、下にパニエがあるから全然見えないんだよ!木登りしても
へっちゃらなくらいなんだ!」
「……」
答えないランティスにイーグルが畳み掛ける。
「あれ、ヒカルの言葉、信じてないんですか?じゃ、ホントに見えないか
どうか実演して…」
「しなくていい」
ムッとしたままのランティスがちらりと見遣ると、跳ね馬は素知らぬ顔で
芝生を食んでいるのだった。
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