Silent.... vol.4 1130 tokyo

§11月30日 (くもり) 夕方 東京

 

 閃光のことを気にしつつも、受験生の身では学校も休めない。受験勉強ははかどらない、眠ろうとしても眠れないで、英文法の

小テストも撃沈だった。あまりに散々だったので、英文法の先生とクラス担任の二人がかりで放課後にお説教されてしまった。

 「小テスト悪いぐらいじゃ、家に呼び出しはこないよね…?」

 トボトボと家路をたどる光の耳に、突然女性の悲鳴が突き刺さる。

 「きゃあああ!」

 瞬時にうちのほうから聞こえたことを判断して駆け出すが、セフィーロにいるときと違い、剣もなければ魔法もない。それでも

行かずにはいられないのが光だった。

 道場の門が面した通りに、ベビーカーを庇うようにしている女性と、低い唸り声を上げる閃光より大きな野犬がいるのが目に

入った。野犬はベビーカーに背を向けているのに、何故逃げないんだろうと思っていたら、その犬の前脚に小さな男の子が踏み

付けられていた。

 「ま、まずいっ!」

 道端にあった光の拳より少し小さい石を拾い、渾身の力で野犬の頭目掛けて投げつける。セフィーロの精獣、魔獣さえ可愛がる

普段の光からは考えられない行動だが、子供の命には代えられなかった。スポーツ万能で女子野球部から勧誘がかかるほどの

スピードとコントロールを誇る光の投石は、狙い通りに命中し、野犬の注意をそらした。

 「お前の相手は私だ!」

 着ていたコートを左腕にぐるぐる巻きつけておいて、挑発するように端をひらひらさせる。野犬は唸りを上げながら、踏みつけていた

子供から光にターゲットを変えた。せめて通学カバンがショルダーストラップのあるタイプなら振り回すことも出来たのだが、肩掛けは

肩掛けでもランドセルのように背負うタイプなので、リーチは稼げそうになかった。野犬はじりじりと間合いを詰めてくる。気迫で負け

ないように、光もキッと睨んだまま視線を外さない。野犬が女性よりも自分寄りに来たところで、光が声をかけた。

 「そこの剣道場に逃げてください。門の鍵は掛かってませんから!慌てないで、でも早くっ!!」

 「は、はいっ」

 若い母親は野犬を刺激しないようにそっとベビーカーを進め、泣きじゃくる男の子を抱えて「獅堂流剣道場」の門をくぐった。

とりあえず親子が安全圏に入ったのを見て光がホッとしたのもつかの間、ふたたび短く女性の悲鳴が上がった。

 「えっ…?」

 まさかうちの庭にまで?と一瞬だけ光の気がそれたとき、野犬が光に飛び掛るために姿勢を低くした。

 「来る――っ!」

 そう思って光が構えたとき、閉めきっていない門から飛び出してきた大型犬が野犬の背中に飛び掛かった。

 「ひ、閃光!?」

 もうほとんど庭に出ることもなく、終日うずくまっているような状態だと覚たちに聞かされていたのに、まるで幼い光を護ってくれて

いた頃のような勇敢さで、野犬と戦っている。

 「閃光っ!閃光っっ!もういいからやめてっ!」

 大型犬同士が争っているところになど、到底割り込めはしない。野犬の鼻っ面をカバンでぶっ叩いて気をそごうにも、光には

狙いを定めることが出来なかった。

 「どうすれば…っ!」

 手をこまねいていた光の耳に、「ギャウンっっ!」という苦痛を訴える鳴き声が響く。大きさで勝る野犬のほうが、閃光の右肩に

牙を立てていた。

 「閃光っっ!?こンのぉぉぉ、閃光を離せぇぇっっ!」

 光はもう何も躊躇わずに、カバンを握り締めて野犬に向かっていった。

 

 

 咬み付かれた閃光を助けに光が走り出すのと同時に、水を湛えたバケツを手に翔が門から飛び出してきた。

 「光、どいてっ!」

 そう言われてもダッシュの勢いは殺せず、翔が組み合う犬たちにぶちまけた水は光をもずぶ濡れにする。水を掛けられ驚いて

逃げようとした野犬は、ご近所の通報でようやく駆け付けた二人の警察官がなんとか捕獲していた。光は制服が血にまみれるのも

構わず、閃光を抱きかかえる。

 「閃光っ!閃光、しっかりして!翔兄様、先生呼んで!」

 「いや、これは連れていかなきゃ治療できないだろ。覚兄(にぃ)はまだ稽古中だし、タクシーには嫌がられそうだしな…。俺が

優兄の車運転してくよ」

 「翔兄様、普段運転してないじゃない!」

 「うるさいっ!お上が認めた免許証はあるんだ。俺様の運動神経でカバーする!光はさっさと風呂入ってこい」

 「私も一緒に病院へ行くよ!」

 「ダメだ!お前受験生なんだぞ。水掛けた俺が言うのもなんだけど、風邪引いちゃシャレになんないんだよ。ちゃんとあったまって

着替えてから病院に来い。いいな?」

 翔が閃光を抱え上げると、光は先回りして木の門を押し開けた。

 

 

 よくあたたまって、と翔に言われたものの、光にはとてもそんな精神的余裕はなかった。覚に釘を刺されていた通りウォッシャブル

タイプの制服をつけ置き洗いに回し、カラスの行水並みのスピードでお風呂をすませると、着替えて一人で出かける準備にかかる。

 野犬を捕まえに来た警察官は大型犬を二人がかりで押さえていったので、子供ともども襲われたショックで放心状態の女性は、

子供達の稽古を終えた覚が送り届けに行っていた。動物病院は学校寄りに一つ隣の駅なので、定期券を握り締め戸締りをすると

光は駅へと駆け出した。

 「閃光…っ。誰か閃光を助けて…!私に回復魔法が使えたら…っ」 

 セフィーロで回復魔法を使える風でさえ、東京ではかけらほども使えないのだから、ないものねだりも甚だしかった。けれども

ほどなく消えていこうとしている閃光の命の灯火が、こんな形で奪い取られるのは光にはとても耐えられなかった。

 家から駅まで走り通した道のりが、ホームで電車を待つ時間が、各駅停車のたったの一駅が、無限に近いもののようにいまの

光には感じられた。どれといって信じる神様がいない光は、パスケースを両手で握り締め、ぎゅっと胸に抱きこむようにして、遥か

遠い世界の神官に匹敵するほどの魔法力を持つというかの人に祈った。

 「こんなのって、こんなのって…。ランティス、閃光を助けて…!」

 

 ――出来ない相談なのは、百も承知の上だった――。

 

 

 「光!」

 改札を出ようとしたところでうしろから光を呼び止めたのは、仕事帰りの優だった。

 「優兄様っ!」

 「光に逢えてよかった。俺、いつもこの路線じゃないから、駅から動物病院の方向って、はっきり判らないんだ」

 「駅前って言っても、アーケードの中だもんね。行こう」

 帰宅ラッシュの人ごみを縫って走りながら、優は光に声をかける。

 「野犬に襲われたんだって?光、怪我はないの?」

 「閃光が…、閃光が助けてくれたから、私は大丈夫。閃光、あんなに弱ってたのに…!」

 駅前商店街のアーケード内にある動物病院のドアには、「本日の診療は終了いたしました」の札が出されているが、ガラス越しに

待合室の翔を見つけて、光と優は中へと入った。

 「翔兄様、閃光は!?」

 「いま治療してもらってるとこ」

 「え、いま?!」

 「緊急手術中の先客が居たからね。突っ立っててもしょうがないから、座れよ」

 「でも…」

 診察室のドアの前で気遣わしげに立っている光に、翔が声を荒らげた。

 「いいから座れ!」

 猫可愛がりされることはあっても、ほとんど兄たちに怒鳴られたことのない光がビクっと肩を震わせる。

 「翔、そんなに怒鳴らなくても…」

 「…ごめん。でも光、最近ほとんど眠れてないだろ?目の下にクマ飼ってるじゃないか」

 「ま、確かに顔色いいとは言えないか。座ってな、光」

 優が肩を抱くようにして、光を促す。促されるまま椅子に掛けはしたものの、今にも『足元が崩れ去っていくような』感覚に光は

囚われていた。

 

 

 待合室で長椅子に掛けて待つ間も、光は両手で蒼いパスケースを握りしめている。いまは遥か遠い、かの国の晴れた日の空の

色――いま一番そばに居てほしい、けれども声を聞くことすら叶わないあの人の瞳の色のパスケース。学校の友達と立ち寄った

雑貨屋でそれを見つけたのは、今年の春先だった。それまで使っていたものもまだまだ十分使えるのに、その微妙な色合いに

魅入られて、おこづかい生活の高校生が手にするにはやや値の張るそれを買って、友達には思いっきり呆れられた。三年生に

なって受験勉強が本格化したら、きっといままでのようには逢えなくなる、だからその代わりだった。思いがけず手に入れた二人の

写真を忍ばせたそれは、光にとってはお守りだった。ただ力が入りすぎているのか、もたらされるかもしれない最悪の結果に脅えて

いるのか、握りしめたその手はかたかたと震えている。

 「私に、私に勇気がなかったばかりに、閃光が…っ!」

 犬に襲われた親子を家まで送り届けて、電車3本遅れで追いついてきた覚が、妹の前に片膝をついて、その髪を撫でた。

 「そんなことはないだろう?もし本当に光に勇気がなかったら、男の子が怪我をしてたんじゃないかな。あのお母さんが『あんまり

恐ろしくて、ありがとうって言うのを忘れてました』とおっしゃってたよ」

 「その言葉は閃光のものだよ、覚兄様」

 ガチャリと音をたてて診察室のドアが開いた。四兄妹は一斉に立ち上がり、獣医の言葉を待った。

 「持ちこたえてるよ。さすがにこれは入院して貰うことになるな」

 「ありがとうございます!閃光に会ってもいいですか?」

 「顔見るのは構わんよ。ただ麻酔がまだ効いてるがね」

 「それでもいいですっ!」

 診察室奥の入院患畜用のケージがある部屋へ急ぐ弟妹を見送り、覚は静かに問い掛けた。

 「実際のところ、どうなんですか、閃光…」

 「一週間、かな。飼い主の『希望』があるなら…、それより早い場合もある」

 「いえ、それは有り得ません。お世話を掛けますが…」

 覚が安楽死の選択をしなかったことに、獣医はほうっと息をついた。

 「お前さんたちなら、そう言うと思ってたよ。ただ、受験生のお嬢には、長引けば長引くだけきつい話だろうがね」

 「それで失敗するなら、光の実力がその程度ってことでしょう。自分の人生の一年の為に、閃光の一週間を奪える子じゃありません

から。それに…、その一年を乗り越えられないようなやつであって欲しくないですね」

 常になく厳しい顔つきでそう言い切る覚に、獣医が苦笑する。

 「やれやれ、女の子相手に手厳しいな」

 その言葉は光自身にではなく、おそらくは逢うことの叶わない妹の想い人に向けたものだったけれど、敢えて獣医の誤解を解かず、

覚は曖昧に微苦笑した。

 

 

 そうしてその日、セフィーロの辺境の地が、音を立てて大きく崩れていった――

 

 

  

SSindexへ                                                                                    Silent....vol.5へ

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆