Someday
普段、寝つきも寝覚めもすこぶるいい光だが、挙式を控えて緊張しているせいか
ひどく眠りが浅かった。
『だめだ…ちゃんと寝ておかなくちゃ……クマつき花嫁なんてことになったら
泣くに泣けないや…』
そんなことを考えながら、うとうととした眠りに漂う。
たとえクマつきで花嫁が現れようと、そこはプロのメイクがなんとか誤魔化して
くれる筈だが、そんなことには思い至らないらしい。
ようやく訪れた微睡みのなかに、ぎぃぃぃ…と木戸の開く時の軋み音が忍び込む。
朝練に訪れる門下生の為に年がら年中朝五時には開門しているが、当然のことながら
兄達にもそれなりの準備がある都合上、今日だけ臨時に稽古は休みにしていた筈だ。
『……まさか…泥棒……?』
現金はたいしておいてないが、先祖から残された古武具などは、その筋では結構な
値打ちものとして噂になっているらしいと優が話していたことがある。
むくっと起き上がって、ふるるるるっと頭を振る。パジャマで賊と対決する訳にも
いかないか…と数秒考えて、いつも通り枕元にたたみ置いていた白い剣道着に手早く
着替える。仕上げにくいっと衿元を整え、部屋の隅に立て掛けてあった細長い袋の
紐を解き、使い馴染んだ竹刀を手に取る。
六月のこの時間はすっかり空も白んでいる。縁側に出ると裏庭を挟んだ向こうの
道場の小窓から灯りがもれていた。
『泥棒にしちゃ、大胆…?』
泥棒稼業に勤しむなら、さしこむひかりだけで十分だろうに、灯りまで点けて探す
とは不敵に過ぎる。
なるべく音を立てないよう注意しつつ裏庭を急ぐ光の耳に、聞き慣れた声が響いた。
「たぁぁぁりゃっっ!!」
威勢のいい掛け声の後に、竹刀が打ち合わさる乾いた音がはぜた。
『翔兄様の声…だよね? 今の…』
気配を消すことなどそっちのけでたたたっと道場へと光が駆け出す。
背の低い光では覗けない小窓の傍まで近寄った時、今日この場には居ないはずの
その人の声が低く響く。
「そんな大振りに面を取られる馬鹿だと思われたなら心外だ…」
『え…なんで今頃…』
小走りで道場を回り込んだ光が出入口の引き戸を一気に開けた。
「こんな時間から何やってるの!?」
光とお揃いのような白い道着のランティスと試合中だったのは紺の道着の翔だ。
翔と同じく紺の道着の覚と優も掛け軸の前に端座している。
「…剣道…」
一言答えたランティスに光がカクっと気勢をそがれている。
「そうじゃなくて! 今日は結婚式だから学院のチャペルで八時に集合の筈だよ!」
ランティスの曾祖父が設立し、両親が理事を務める聖レイア学院にあるチャペルは、
学院行事がない日に限り卒業生の利用を認めている。ランティスと光の二人が今日の
佳き日をこうして迎えられたのも、学院でともに過ごした時間があったからこそとも
言えるので、そこで挙式をすることは自然な流れではあった。
「敵前逃亡は出来ない」
「へっ?」
挙式目前の乙女にあるまじき反応を気にするでも無く、ランティスが淡々と続けた。
「応じなければ花嫁は渡さないと言われたからな。来ない訳にはいかないだろう?」
「もう! まだそんなこと言ってるの!? 翔兄様」
渡すの渡さないのなどと結婚式当日になってまで揉める過保護な兄達の急先鋒に
光が抗議する。
「お、俺だけ名指しなのかよっ!? てか、当然だろ? 光は俺達のたった一人の妹
なんだぞ。その光を攫ってく気なら俺達獅堂三兄弟を倒してから行けってんだ!」
「学生時代に散々倒されたじゃない。まだ足りてないの?」
「う゛…、お前、それを言うか」
公式試合では長兄との兄弟対決以外で無敗を誇ってきた獅堂翔が、唯一苦杯を喫し
続けた相手がこのランティス・アンフィニなのだ。
光と出逢ってから獅堂流剣道場に通い続けたランティスが段位認定以外の試合に
ほとんど出る気を見せなかったのでその程度の瑕疵(きず)で済んだとも言える。
「心配しなくていい。すぐに終わらせる」
小手で包まれた左手で、光の頭をぽふぽふと軽く撫でる。
「でも三対一はフェアじゃない。私、ランティスの次鋒につくから」
二人しか居ないのでは次鋒だか大将だかいまひとつ判らないが、すたすたと場外に
出た光も端然と座して、婚約者と超がつくほど過保護な兄に視線を向けた。
瞬く間に翔が胴を払われ、次に対戦した優も竹刀を取り落とすほど強烈に小手を
打たれていた。
「やれやれ…こう言ってはなんだけど、獅堂流総師範の息子としては少し情けなく
ないか? 鍛錬が足りないよ、優も翔も…」
深いため息とともにそう評した覚がゆっくりと立ち上がる。
「大将のお出ましだな」
「休憩を挟んだほうがいいか?」
「いらん。花嫁の支度は時間がかかるものだからな。早めに貰い受けたい」
すでに二戦を終えたランティスだが、息の乱れもない。
「そう簡単にはいかせない」
その言葉通り、翔や優と違って、覚には全くと言っていいほど隙がない。焦れた
のを装って僅かに前に出て誘ってみても、やすやすとは乗ってこない。翔のような
速攻が持ち味という訳でもないがこれほど粘る覚も珍しい。
「どうした。持久戦か?」
「…」
持久戦に持ち込む気などさらさらないが、ただ攻めあぐねているというのが正しい。
剣道のキャリアとしては遥かに及ばない筈なのに、この隙の無さは優や翔を上回って
いると認めざるを得ない。
ぐっと竹刀を握り直した覚が口を開いた。
「…本当に…こいつでいいんだな……?」
それは目の前のランティスに言ったようでもあり、傍らで試合の行く末を見守って
いる光に訊ねたようでもあった。
「当然だ」
「覚兄様! こいつなんて言い方して酷いよ!! 兄様にとっても親友なのに…」
ぐっと身を乗り出して長兄に噛みついた光をランティスが手で制した。
「一つ訂正しておくが…」
「何だ?」
「こいつ『で』いいんじゃない。ヒカル『が』いいから、結婚を決めたんだ」
「「…きっざー…」」
早々に敗北を喫した優と翔が思わず顔を見合わせてハモる。
「泣かせるようなことがあったら承知しないからな」
「…泣かれるより先に道場に召喚されそうだが」
「それは…無いとは言えない」
「ええっ!? どうしてそこで一致してるの? 二人とも酷いよっ!」
光の抗議をくすりと受け流し、期せずして同時に一歩を踏み込んだ二人の竹刀が
激しくぶつかった時、制限時間を知らせるタイマーが鳴った。
じりりりりりりりりりりりりっ
『こーら、光っっ! 何時だと思ってんだ。とっとと目覚まし止めろー!!』
妹の部屋は許可なく無闇に開けるべからずとの御達しを守った翔が襖をどんどん
叩いている。
「試合終了……!? 勝者は……あ、れ……??」
自分の寝言と鳴り響くけたたましい音に驚いた光が枕元の目覚しをバンッと叩く。
「私の部屋……? …なんだ、夢か……」
『光、ちゃんと起きたかい? そろそろ着替えてごはんを食べないと、龍咲さんが
迎えに来てくださるんだろう?』
襖越しに声を掛けてきた覚に、布団の上に正座した光が答えた。
「覚兄様、おはようございます。すぐ行きます!」
学園祭の出し物を微妙に嫌がっていた光が逃亡しないよう、海が父親の車で迎えに
やって来ることになっているのだった。
「敵前逃亡は出来ない…か」