少 年 A の 憂 鬱
時折しみる歯をうにうに頬を押して誤魔化していたアスコットだったが、
その現場をカルディナに押さえられてしまった。
「何やってんのん?アスコット。虫歯でも出来たんかいな?」
「ちょっとしみるだけだよ。虫歯って訳じゃ…」
「口、開けてみ」
「ここで!?いいよ、カルディナ」
何が悲しくて人も多いカフェテリアで歯の検診をされねばならないのだ。
「ええから!ウチはあんたんとこのサニーに『アスコットのこと、くれぐれも
よろしゅうに』って頼まれとるんや。さっさと開けへんかったら、無理くりでも
こじ開けるで?」
「わ、解ったよ…。あー」
カルディナはどこからか取り出したペンライトで口腔内を照らす。
「下はパッと見ぃ、なんともなさそうやなー。どこしみてるって?」
「ふへ。みひはわ(上。右側)」
「んー、んん…!?なんや黒なっとるで?いわんこっちゃない!やっぱり
虫歯やないの!」
「そんなに怒鳴らなくていいじゃないか、虫歯ぐらい…」
アスコットの耳たぶをギュッとひっつかんで、カルディナが低く囁いた。
「アホやな、アンタは…。虫歯はキスで感染るんやで?万が一、千万が一の
チャンスが来た時に、ウミに虫歯菌感染す気ぃなんか!?」
「そ、そんなチャンスないけど…感染すなんて、絶対ダメだ…!」
「そやろ?で、どっか知っとるんか?歯医者」
「知る訳ないじゃないか…」
「ホンマに家と学校しか知らんコやねんから…、もう」
引っ込み思案な弟分にカルディナが肩を竦めた。
「動物病院なら知ってるよ!」
海が薦めてくれた動物病院は通学ルート上にあるのであまり偉そうに言えた
ものじゃない。
「あら。マリノ、具合い悪いの?」
突然響いた待ち人の涼やかな声に、おおいに焦ったアスコットはただ首を横に
振るばかりだった。
「ああ、ウミ、ええトコにきたやん!お嬢様のアンタやったらええし(≒名士)
の知り合いぎょうさん居るやろ?」
「A氏??誰?」
大阪弁全開なカルディナに海が目を白黒させている。
「猫やのうて、アスコットが虫歯あるみたいなんよ。ええ歯医者、知らん?」
「歯医者さん?かかりつけならあるわよ。うちの最寄り駅の近くだから
アスコットにも解るんじゃない?駅から家に来る途中に前を通ってるはずよ」
「歯医者さんなんてあったっけな…」
見たくない物はなるべく歯科医に…、もとい、視界に入れないようにしている
ので、無意識のうちにスルーしていたのかもしれない。
「私がいつも診てもらってるのは若先生なんだけど、ここ半年ほど留学中なの。
だからお…、大先生(おおせんせい)に診てもらうことになると思うけど、いい
かしら?」
何か言いかけて言い直した海をアスコットが不思議そうな顔で見ているが、
カルディナはそんなことに構いもしない。
「かまへん、かまへん。アスコットが診てもらうんやし、イケメンやのうても
全然問題あらへんよってに」
「い、イケメンなの?若先生って…」
歯科医である以上それなりに年上のはずだが、海のストライクゾーンがよく
判らないアスコットは落ちつかなげだ。
「イケメンかどうかは好みによると思うけど。若先生は大先生の娘婿だから
妻子持ち。不倫なんて面倒なこと、私はしないわ」
「そっか」
「早めがいいわよね。あー、お昼過ぎちゃったから今日はもう駄目ね。木曜・
土曜午後と日祝日は休診なの」
思わずホッと安堵の息をついたのも束の間、海からの投網にアスコットは逃げ
道をなくしている。
「明日も学校に来る?」
「そ、そのつもりだけど…」
「だったら部活の帰りに案内してもいいわよ。知らないところにいきなり電話
予約するなんてこと、出来ないでしょ?アスコット」
「あ、うん!凄く助かるよ」
「じゃあ、明日は受診の前に歯磨きしなくちゃいけないから、トラベル用の
歯ブラシセット持って来ること。あと、健康保険証…って、留学生もあるの?」
「理事先生の…、ミセス・アンフィニに言われて国民健康保険っていうのに
入ってる」
「そう。だったらそれも忘れず持ってきてね。それから歯医者さんって混合
診療ありだから、何をどこまでどうしたいか、おうちの人…とりあえずは
日本での保護者はイノーバさんなのかしら?…ちゃんと決めておくのよ?」
「混合…診療?何、混ぜんの?」
「そうじゃなくて。えーっと、保険の範囲内で治すのか高くついてもいいから
いい材料とか見栄えとかにこだわって治すのかって選べるってこと。すごーく
大雑把な説明だけど」
「保険で出来るとこでいいんだけど、一応相談してくるよ」
「あとは何かあったかなー。あ、そうだ。最初はレントゲン撮影とかで費用
かかるから、少し多めに持っておくのよ?一万円迄はいかないと思うけど」
「う、うん」
勤労学生には痛い出費だが仕方がない。
「明日は三時まで練習だから、三時半に中央棟のエントランスでいい?」
「三時半だね」
「あとは…、やだっ、もうこんな時間!午後の練習始まっちゃう!追加する
ことがあったらメールするわ。じゃね!」
ダッシュで駆けていく海の背中に見惚れているアスコットにカルディナが
すすすっと近寄った。
「・・・鼻の下、伸びすぎなんとちゃうか?」
慌てたように鼻の下をゴシゴシ擦るアスコットに、うっふっふと笑いかける。
「ホンマにウチはええ仕事するやろ?学食のDランチ(デザート付)の一つや
二つ…、ああもうドドーンと五つぐらいご馳走しよかっちゅー気になったんと
ちゃう?」
「ご、五人前も食べんの!?いくらなんでも太るよ?」
「アホやな。そないいっぺんに食べる訳あらへんやない。すぐは歯医者代も
かかるやろ?二学期まで待ったるよってに、始業式の明くる日から一週間、
Dランチご馳走してな♪」
「…わかったよ…」
確かにメールで持ちかけようとは思っていたものの、なかなか切り出せずに
いたのだ。海との約束を取り付けられたのだからその程度の出費は致し方ない。
「…アスコット、鬼先生に診てもらうんだ…勇気あるなぁ」
すぐ近くの机でランティスと勉強中だった光がいわく言い難い表情で言った。
「オニ先生?…違うよ。ウミは大先生って言ってたじゃないか」
「私も歯科検診でよく行くんだ、そこ。若先生は優しくてすごく人当たりが
いいんだけど、大先生は滅茶苦茶おっかないんだ。先生の苗字が鬼瓦だから、
海ちゃんなんか縮めて鬼先生呼ばわりしてるし、実際」
「…な、名前だけだよね?」
「あははは、は…」
あまり悪し様にも言えず光が引き攣った笑いを浮かべていると、ランティスが
ぼそりと言った。
「…日本には【名は体を表す】という諺があったな…」
「なっ、なんだよ…」
「気にするな。ただの諺だ」
だったら、いまこの場で言うなと喉まで出かかったが、口数少ないランティス
相手にさえ勝てるような気がしない。
「磨き残しないようにしっかり磨いてくんだよ?フロスもちゃんと使ってね」
「ええっ!?フロスなんて使ってないよ」
「ダメだよ。そこまでやっとかないと絶対怖いから!」
「…今日、買って帰る」
「ウミのよう知ってるとこやし、大の男がべソかくわけにもいかへんわなぁ。
しっかりしぃや!ほな、Dランチ5回よろしゅう♪」
ひらひらと指をひらめかせ、カルディナもそそくさと去っていった。
「…顔色が悪い…」
「大丈夫か?アスコット。フェリオ呼んでこようか?」
「あ?うん。ううん。大丈夫。フェリオも今日久しぶりフウに逢えたんだ。
邪魔しちゃ悪いから、いい…。僕、帰るよ。じゃあね…」
ふわふわよろめくような足取りのアスコットの背中を光とランティスが見送る。
「悪いこと言っちゃったかな、私」
「ヒカルが言おうと言うまいと、厳しい歯科医にかかる事実に変わりない。
気にするな」
「そういうもんかなー」
「それよりヒカル。今日のノルマがあと三問残ってるぞ」
「はっ、はいー!」
光が再び問題集に取り組み始めたのを確認すると、ランティスもまた手元の
本に没入していくのだった。
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サニー…セフィーロ王宮の女官。アスコットの遠縁で保護者。日産 サニーより
マリノ…アスコットが拾った猫 トヨタ スプリンターマリノより