少 年 A の 憂 鬱
少し離れたテーブルでフェリオとアスコットも宿題を片付けていた。自宅で
やれば良さそうな二人がわざわざ学院まで出てくるのには訳がある。
「フェンシング部は大会控えてるから一日練習だし…。今日こそランチ食べに
来ないかな、ウミ…」
「そう言って待ち続けて何連敗してるんだか…。ウミは普段も弁当らしいし、
体育館で食ってんじゃないか?」
体育館利用の部活組はコートで座り込んで食べていることが多い。グラウンド
組は休憩まで炎天下ではツラいとカフェにやってくる率が高いのだ。
「いっそテイクアウトして体育館に行ってきたらどうだ?」
「そ、そんなこと出来ないよ!部員じゃない僕が交ざるの変じゃないか!!」
「俺みたいに部活一緒にしちまえばよかったのに、面倒なヤツめ…」
「そんなこと言ったって…」
いくらか改善されてきたとはいえども、引きこもり系人見知りのアスコットに
体育会系の部活はかなりキツい。ことにこの学院のフェンシング部には現在
高等科生しか男子部員がおらず、アスコットにとって余計ハードルが高くなって
いた。
それにダンっと剣先を突き出されるアクションがどうにも恐ろしかった。
カルディナに指を突きつけられるときもそうだが、ひゅっと喉が締まりそうに
なる。フェリオには『先端恐怖症か?』と訊かれたけれど、自分でもそれを
確かめてはいない。憧れの美少女の嗜むスポーツが怖いだなんて、あまりにも
格好つかなすぎて認めたくない。
そんな調子なので、アスコットは体育館を覗きに行くことも出来ずに
カフェテリアでの偶然の出会いを期待しているのだ。
一緒の部活の利点を挙げたフェリオがアスコットと同じようにカフェテリアで
たむろ…もとい、勉学に勤しんでいるのも似たような理由だった。
基本的に中高一貫なのでSaggitarius ≪人馬宮≫(中三)のフェリオが部活を
引退した訳ではない。また高等科へ上がる際の試験も、普段の成績が地獄的に
悪い者でもなければキリキリ受験勉強をする必要もない。ランティスのように
高等科で中途編入する場合に限り、なんの嫌がらせかというほど難易度がハネ
上がるのだ。
弓道部は顧問の都合で十日ばかり練習が休みになる。そうなると部活が同じの
アドバンテージはあっという間に雲散霧消してしまう。アスコットは海と同学年
なので、その気になれば『一緒に宿題しよう』と誘う手も使えるが、フェリオと
風では学年が違う。学年が上の自分が教えて貰うなんて誘い方は情けないし、
風は誰かに教えを乞うまでもない優等生だ。しかもこれまた才媛の姉・空がいる
のでそれこそフェリオが出る幕がない。
空自身も大学受験を控えた身なので、フェリオがのこのこ鳳凰寺家に出入り
するのはさすがに憚られるし、箱入りの風がフェリオたちの家に出入りする
なんてことは絶望的に考えられなかった。
故国セフィーロの隣国でフェリオの姉・エメロードが鳳凰寺家とコンタクトを
とったという事実もあるが、それとこれとはまた別ということだった。正式に
ことが決まっている訳ではない。むしろ鳳凰寺家に、風に要らぬちょっかいを
かけるものがないように秘しているぐらいなので、『名門鳳凰寺家の娘がボーイ
フレンドの部屋に頻繁に入り浸っている』などとゴシップ誌に書き立てられても
困るのだ。
だから学院の図書館やカフェテリアが一番いい場所なのに、いっこうに風が
現れないので、フェリオもアスコットのことは言えないぐらいに落ち着かない
様子だった。
「しっかしランティスのやつは余裕だよな。受験生とは思えない呑気さだぜ」
クルクルとペンを回しながらフェリオがため息をついた。
「いつ見ても本読んでるよね。他のPisces≪双魚宮≫(高三)生は赤い問題集
とかやってるのにさ」
どうやら赤本のことを言いたいらしい。
「あの赤い本ならでかでか大学名入ってんのになー」
フェリオ自身の留学期間がどのくらいになるか判らないが、参考までにと
訊いてみたら見事にはぐらかされたのだ。
「高望み過ぎて失敗すると格好悪いから言わない…とかさ」
「下手すりゃ大学入試よりエグいっていうここの高等科の編入試験で、満点
叩き出したバケモンだぞ?あいつ」
「う〜ん。じゃあ、もう準備万端だから大学入ってから勉強するジャンルの本
読んでるんじゃない?」
「それにしちゃずいぶんまちまちなチョイスだぜ?先週は基礎電気電子工学と
気象概論。二、三日前は航空力学の本、今日は…インプラントロジー…」
「何、それ?」
「えーっと、どっかで聞いたな…。なんか歯科治療の手法だったような、
ちがったか?」
「基礎電気電子工学も使い道がよく解んないけど、航空力学と歯科治療なんて
接点ないじゃん」
ほとんど前髪に隠れた緑の瞳を真ん丸に見開いたアスコットが呆れた声を
上げると、フェリオは肩を竦めた。
「俺が知るかよ。アイスベルガモットティーのお代りでもするかな…」
お代りは当然ながら格安とはいえ有料だ。
「あ、僕も行くよ」
グラスに残った氷をアスコットは一気に呷(あお)ってガリッと齧った。
「…って…!」
顔を顰めて頬をおさえたアスコットにフェリオが苦笑いした。
「あン?慌てて口の中噛んじまったのか?ありゃ口内炎になると痛いんだ…」
「違う。歯にしみた」
「知覚過敏か?……もしかして虫歯じゃないのかー?お前、国でも歯医者
避けまくってたよな」
「お医者に行くのは我慢出来ないぐらいに痛い時だけだよ。貧乏人だもん」
セフィーロ王宮から俸給をいただく身で主家の一員たるフェリオを前にして
貧乏人と言い切るのはいかがなものかと思えるが、勤労学生なのだから決して
裕福とは言えない。
王子付きということでご典医に風邪薬や胃腸薬を分けて貰う程度になら厄介に
なったこともある。だが歯科のような専門的治療を受ける場合は王族でも外の
医者に出向くので、アスコットにはかなり敷居が高かった。
日本と違い国民皆保険制度が整備されていないセフィーロでは医療費は馬鹿に
ならないのだ。
「年単位で留学する予定ならってミセス・アンフィニに言われて国民健康保険
ってのに入っただろ?せっかく掛け金払ってんだし、お前、日本に居る間に治す
ほうがいいんじゃないか?確かにセフィーロじゃ医療費は馬鹿にならないし、
日本の医療レベルは高いらしいしな」
そういう参考にしたい制度面などは彼らのお目付け役であるイノーバが色々
精査しているようだ。
「うーん…。もう少し痛くなったら考えるよ」
ずいぶん前に、フェリオに付き添って歯医者に行った時のキュイーーーンとも
シュイーーーンともつかない恐ろし気な音は、思い出すだけでも背筋がゾワゾワ
寒くなる。細いドリルみたいな物を手にマスクで表情の判らない先生を見て、
歯を削られるフェリオ以上にアスコットのほうがひきつっていたものだった。
「ったく……酷くなって抜かれる羽目になっても知らないぞ」
「解ってるよ」
いい動物病院を教えてくれた海ならもしかしたらいい歯医者も知っているかも
しれない。たとえ知らなくてもメールするには絶好のネタだ。ここで電話してと
言えないあたりがクチの悪いカルディナにヘタレ呼ばわりされる所以(ゆえん)
であった。