ミニ薔薇戦争
「光さん、日曜日はどこかにお出かけになるのかしら?」
夕食後にそう尋ねられた光は、ペろりとご飯を平らげたばかりとも思えない、この世の末だとでも
言いだしそうな暗い顔で答えた。
「…≪ちいさき薔薇の舞踏会≫が終わるまでは、土日は海ちゃんち。私、ワルツの落第生なんだ」
体育の時間はカルディナに、学外では海に猛特訓されているにもかかわらず、光のワルツは
壊滅的な様相を脱しきれずにいた。剣道の大会をいくつも制しているし、体育だって五段階評価の
五以外ついたことがないのだから運動神経は悪くない筈だし、また得意だとの自負もあった。それ
なのにラファーガの言葉を借りれば、『家に運動神経を忘れてきた』ぐらい、ワルツとなると身体が
思うように動かないのだ。初等科の頃に習ったフォークダンスはちゃんと踊れていたのだから、
特段リズム感が悪いという訳でもないだろう。
『昔、Mr.Robotoっちゅー歌があったんやけど、アンタはMissRobotやな…』
ため息混じりのカルディナがつけたありがたくないあだ名を返上したいのは山々だったが、
どうにもならずに光は焦っていた。
「…日曜、何かあるの?」
「舞踏会のドレス選びですよ。今度ばかりは覚さんたちのお下がりという訳にいきませんでしょう?」
これまたおっとり天然系の母の振り下ろした見えない鉄槌にぶちのめされつつ、男性は女性をリード
しなきゃいけないんだからもっとハードルが上がるんじゃないだろうかと、光の頭の中はぐるぐる回って
いた。
そんな思考過程がありありと見て取れる妹に、三人の兄は複雑な思いを抱えていた。覚は四回、
優は三回、翔は二回舞踏会を経験済みで、三人とも学院内ではかなり踊れるほうに入るのだ。
可愛い妹が困っていれば、いやさして困ってなくても手を差し延べてきた彼らのこと、剣道や学校の
宿題・予習復習をほっぽり出してもいますぐ練習相手になることに否はない…筈だった。
球技大会の頃にジェオにからかわれたように学院の舞踏会で妹と踊ろうというほど病んではいない
つもりだが(ホントに…?)、華麗に踊れるようにした妹を掻っ攫われるところを見たい訳でもなかった。
しかも『もしかしたら…』という可能性の話ではなく、『確実に!』奪いにくるヤツがいることが判って
いるとなると、彼らの口も手も沈黙を守っているのだった。
『単位と出席日数に関係ないし、ホントは仮病で休みたいぐらいなんだ…。もったいないから、
ドレスはもうレンタルにしよ、母様』
女の子ならきらびやかなドレスを見るだけでも嬉しかろうと思いきや、まるで買う気を見せない
一人娘に麗も困り果てていた。
「やっぱりもう少し女の子らしく育てるべきだったかしら…」
諸般の事情から舅らに諾々と従ってしまった過去を省みつつドレスブティックのショーウインドウを
眺める麗に、店の中から手を振る女性がいた。恥ずかしいぐらい手を大振りしても気づかぬ麗に業を
煮やし、自分の連れに命じて店外まで迎えに行かせた。
「こんにちは」
「あらまあ…。どうなさったの、こんなところで…」
長男よりさらに背の高い少年を見上げて、麗が目を丸くしている。
「母の荷物持ちで…。ヒカル…さんの、ドレスをお見立てに…?」
「私は和装が多くて、こういうドレスはさっぱり解りませんのよ。肝心の光さんときたら『ワルツが
下手だから、ドレスはレンタルでいい』の一点張りでちっともご一緒して下さらないし…」
「入ってご覧になれば?あれでも一応舞踏会慣れしてますよ」
ランティスはそう言ってちらりと店の中の母を見遣った。
「そうねぇ、ご迷惑でなければキャロルさんにご相談に乗っていただこうかしら…」
迷惑がるどころか、下手をするといますぐウエディングドレスをオーダーしかねないぐらい光のことを
気に入っているのだ。
ランティスに招じ入れられ、華やかなドレスを身体にあてているキャロルの傍に来た麗が苦笑した。
「奇遇ね、レイ」
再会を喜んだ夜、『ちゃん』付けを辞退されたキャロルはフランクにそう呼んだ。
「…光さんもそれぐらい熱心にドレスを選んでくださればいいんですけど…」
「ヒカルちゃんは一緒じゃないの?あらぁ、ざ〜んねん…」
ちらりと意味ありげな視線を寄越した母をじろりとひと睨みしてから、ランティスは麗に尋ねた。
「ドレスはともかく靴はどうするんです?」
「いまお友達にワルツの特別レッスンを受けているんですけど、その方が使わないままだった
赤い靴を譲って頂くことになったみたいで…。・・・いけない、海さんへのお礼、何がいいのかしら…」
靴の一件もつい二、三日前に聞かされたばかりで、海の母親の龍咲優雅子に電話で礼を述べた
だけだった麗はその品も見繕わなくてはと店内のあれこれを見回していた。
――数日後
「ただいま帰りましたぁ!」
「お帰りなさい。光さん、あなたにお届け物がありますよ」
道場に向かうランティスと別れて母屋に入るなり呼び止められた光が居間を覗くと、大きな赤い
リボンで飾られた一抱えもありそうな箱が置かれていた。
「何これ…。宛名ないよ」
「でも間違いなく光さん宛ですから。お部屋でご覧になってみたら?」
狐につままれたような顔で光はその大荷物を部屋へと運び、着替えもせずに箱のリボンを解いた。
包装紙を丁寧に開けると、光でも聞き覚えのある有名ブティックの名前が金箔で刻まれていた。
「……ドレスだ…。舞踏会用に…?」
姿見の前でそれを身体にあてがってみると、誂えたように光によく似合っていた。海に譲り受けた
あの靴にも色合いまでぴったりだ。
「母様、やっぱりドレス選びたかったのかな…」
自分の無様さにどうにも意気が上がらず、『レンタルでいい』などと思っていたが、母親としては
一人しかいない娘とそういう物を選んでみたかったのだろうかと光は少しばかり反省していた。
制服を脱いで試着してみるが、比較的スレンダーなシルエットながら光にぴったりのサイズだった。
「ほっ、よかった…海ちゃんの服みたいなウエストきゅっ!じゃなくって…。えへへっ、ま…馬子にも
衣装…かなっ?」
自分で自分を茶化しつつ、汚さないようにさっさと普段着に着替えると光は居間の母に抱き着いた。
「母様、素敵なドレス選んでくれてありがとうっ!」
「私はドレスのお見立てなんてできませんよ。お気に召したみたいね。さすがだわ…」
母の言葉を量りかねる娘は目をぱちくりさせていた。
「あれ、母様が買ってきてくれたんでしょう?」
「『プレゼントしたい』とおっしゃっていましたけどね。今回はお見立てだけにしていただきましたよ」
「・・・・・誰に?」
「光さんもよくご存知の方ですよ。あれを着てワルツを踊る光さんをご覧になりたいんですって。
おさぼりはできませんわね」
「母様、だから『誰』が…?」
「内・緒。当日になったら判るんじゃありませんの?」
疑問符飛ばしまくりの娘の顔を母は楽しそうに眺めていた。
≪ちいさき薔薇の舞踏会≫の開催が近づくにつれ、パートナーが決まりプリザーブドフラワー
コサージュを交換した生徒の胸から紅白の薔薇が、ひとつ、またひとつと消えていく。≪学外に
ステディがいるから踊りません≫を意味するオレンジの薔薇はずっとつけていても構わないし、
舞踏会当日だけでも構わない。最近の傾向としては、『ステディは別にいるけど、一日限りの
パートナーに応じます』との意味合いで着け続ける者が多いようだった。舞踏会を機に交際を
始める者の多くはその開催年で品種が変わるコサージュを記念の品にしたいと希望するので、
舞踏会当日にはその胸を飾るための生花も用意される。
今年の注目株は人当たりがよく笑顔が爽やかな転入生のフェリオと、去年紅薔薇の誘いを
蹴りに蹴りまくっていたランティスだった。
ランティスに至っては球技大会でのあれこれ(数々のいちゃいちゃっぷり?)で、女嫌い(と言うより★★?)
疑惑が一掃されたと同時に、親友の妹である光と半公認の空気をもぎ取っていた。当の親友と
その兄妹(要するに光本人含む・爆)が認めたがらなかったり、よく判っていなかったりするあたりが、
事態の混乱に拍車をかけていた。ランティスと光がいまだコサージュを胸に飾ったままである
ことから、『もしかするとまだチャンスがあるのでは…』と一縷の望みを捨てきれない女子生徒らが
固唾を呑んで二人の動向を窺っていた。
ランティスには光しか見えていないし、三兄弟(主に下二人)からすれば、『交換日記の一冊も
終わらぬうちに舞踏会のパートナーなんてとんでもない話』だし、一向にワルツの上達しない
光はドレスを選んでくれた誰かさんに詫びて逃げ出したいぐらいだったので、パートナー云々
どころの心境ではなかった。
それどころではない一方で、学校帰りに待ち合わせるランティスの制服の胸に白薔薇の
コサージュがあることにホッと安堵の息をつく日々を過ごしていた。
球技大会が済んでからというもの、光が部活を終えるのを待ってから獅堂流剣道場へ顔出し
するのがランティスの日課になっていた。
「私を待たないで早めに道場に行くほうが、練習時間取れていいんじゃないのかな…」
「…一緒では嫌か…?」
ふるるるっと光は全力で首を横に振った。
「そ、そんなことないっ!先輩にエスコートして貰ってるみたいで、スッゴく嬉しいよ!」
みたい、ではなく、どこから見てもエスコートに他ならない(あるいはもっと踏み込んでデート、とか…)のに、
どうやら光は自分が女の子扱いされていることにピンと来ていないようだった。
『もう明日が舞踏会なのに、ランティス先輩が白薔薇を着けてるってことは、今年も踊らないって
ことだよね…』
まともに踊れもしない自分が気にすることではないのだが、なんといってもスポーツ万能だし、
英国暮らしが長かったからきっと華麗に踊れるだろうと容易に想像がつくだけに、その姿を
見られないのはとても勿体無いことのような気がした。
獅堂流剣道場の門をくぐったところで、光が学生鞄から交換日記のノートを取り出す。学校で、
あるいは帰り道に交換してもよさそうなものなのに、ランティスは敢えて兄弟の目のあるところで
ノートを遣り取りしていた。
いつもならノートを鞄に仕舞い込んで、「じゃあ」と短く別れを告げるランティスがそのまま光の
ほうを見つめているので、光は小首を傾げて不思議そうな表情を浮かべていた。ノートを仕舞った
学生鞄と焦げ茶の帆布製の剣道具入れを足元に置くと、ランティスは自分の胸元にある白薔薇の
コサージュを外した。相変わらず不思議そうな顔のままの光の右手を大きな左手で掬い上げ、
その掌に白い薔薇を載せると右手でコサージュごとふわりと包み込んだ。
「ヒカルの胸の、その紅い薔薇と交換して欲しい…」
「えっと…、あの、それって、つまり…」
コサージュを交換するということは、舞踏会のパートナーになるということだ。去年並み居る
綺麗どころのお誘いに見向きもしなかったランティスが、もう今年もこのまま踊らないのではないかと
目されていたランティスが、あろうことかろくに踊れない自分のパートナー……?!
「≪ちいさき薔薇の舞踏会≫に、ご一緒していただけませんか?」
包み込みだままの光の右手を高く掲げ、丁寧にそう告げたランティスに真っ赤になった光が慌てて
言い繕う。
「あのっ、そのっ…私、めっちゃくちゃワルツが下手で、そんな、先輩と踊るだなんて大それたこと…」
「無理に踊らなくてもいい」
「でも…」
「舞踏会のパートナーが欲しい訳じゃない…」
「え…?」
「ヒカルをエスコートしたい。これから、ずっと」
「どうして…」
この期に及んで未だ飲み込めていない風情の光にランティスがくすりと微笑う。道場の格子窓に
張り付かんばかりだった優と翔が引きはがされたのを見澄まして、ランティスはくっと背を屈めて
戸惑い顔の光の耳元で囁いた。
「・・・・・・」
少しだけ耳慣れてきた天から降り注ぐが如きエンジェルボイスより、ほとんど吐息だけで告げられた
その言葉のほうが、光の心拍数を跳ね上げる効果はてきめんだった。
ばくばくうるさい自分の鼓動と、道場から響くやけに(自棄に?)威勢のいい竹刀を打ち合わせる音と、
中庭のししおどしの緩やかなカウントの中で、光は一生懸命言葉を探していた。
最優先はどれだと考え、ランティスの両手にくるまれたままの自分の右手に意識が向いた。
ワルツもまともに踊れないぶざまな自分でも構わないと言ってくれるのなら、他の誰かがランティスの
傍らに居る姿を見ずに済むのなら、光の選択はひとつしかなかった。
両手ですればいいものを、利き手でもない左手でコサージュの安全ピンを外した光が慌てすぎて
針先で小指を刺した。
「た…っ!」
小さく苦笑いしたランティスが当たり前のようにその指先を口に含む。飛び出したネコミミとしっぽを
ちらりと見遣り、ぽむぽむと宥めるように柔らかな髪を叩いた。
「…ご、ごめんなさい」
血が止まったことを確かめたランティスは光が外した紅薔薇のコサージュを自分の胸に着け、光の
右手に載せていた白い薔薇を光の制服の胸元に着けた。
「焦らなくていい…」
ランティスのさりげない一言が光をふわりと包み込む。特別深い意味はなかったのかもしれない。
あまりにそそっかしい光への何気ない一言だったのかもしれない。それでも光には、いろんなことを
ひっくるめてそう言ってくれているように思えた。
「ハイ、先輩」
気恥ずかしげにそう答えた光の鼻の頭をランティスが人差し指でつついた。
「『先輩』は無しだ」
「ほえっ?」
告白されたばかりだというのに色気も素っ気もない声を上げた光に、ランティスがぼそりと言った。
「…1/250扱いはごめんだ」
何の数字だろうと考えて、はたと思い至った。各学年50名、中等科一年生の光には約250人の
先輩がいるのだ。
あの駅で出逢ってからこれまで、『先輩』あるいは『ランティス先輩』としか呼んで来なかった光は
どう呼ぶべきなんだろうかと固まっていた。
「ラ…、ランティス………先ぱ…い」
呼び捨てることが出来ずにこそっと付け加えると、ランティスはこれでもかというほどわざとらしく
そっぽを向いた。すぐ目の前に居るのに視線をそらされるのは、たまらなく切なかった。(晩御飯前だという
ことを差し引いても、多分きっと……)
先輩の一人で居たくないランティスの気持ちも解るのだが、物心ついた頃からバリバリ体育会系の
世界で育ってきた光にとって「先輩を呼び捨てる」なんてことは言語道断だった。
「英国が長かったから呼び捨てには慣れてるんだが…」
「…そう、だよね…」
言わなくちゃと思うあまり微かに唸っている光の柔らかな髪を撫でて、ランティスが小さく肩を竦めた。
「仕方がない。当面の課題だな」
「…努力する」
「努力して欲しい訳じゃない。自然にそうなればいいとは思うが…」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「練習頑張って」
きっと今日はこれでもかというぐらいしごかれるだろうと思いつつ、道場へと向かうランティスだった。
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カルディナさんが言ってるのはこんな曲 Mr.Roboto/Styx (洋楽なのになぜか日本語の歌詞が混じってたり・笑)