課外授業 vol.3 〜すれちがい〜
昼食を済ませて、植物観察を続けたいという光の要望で、二人はまた森の中を歩きはじめた。中身を食べてしまったので
空になったバスケットに、たくさん落ちているステラの実を拾い集めて、城の人々へのお土産にしようなどと言いながら、
また目新しい果実を見つけて図鑑を調べていた光が、ガサガサガサっという物音に驚いて振り返る。その視線の先で、
地球の狐によく似た動物が兎のようなものを咥えて森への闖入者を見据えていた。
「う、兎が…っ!」
グローブからエスクードの剣を取り出して駆け出そうとした光の右手首と左肩を、ランティスがうしろからがっしりと掴んで
止めた。
「待て、何をする気だ?」
「何って、決まってるじゃないか!あの兎を助けなきゃ、狐に食べられちゃうよ!」
「ウサギ…?ああ、ラパンのことか。あのラパンはもう死んでる」
「だけど…」
「左のほうの大木の根元の洞を見てみろ。お前があのラパンを取り上げたら、アーレンスの子どもが飢えることになるぞ」
光がランティスに教えられたほうに視線を向けると、木の洞から子狐ならぬ子アーレンスが三匹顔を覗かせていた。
「あっ…」
戦意を喪失した光の手からエスクードの剣が消えると、ランティスはそのまま背中越しに光をふわりと抱きこんだ。
「――こういうのは、初めて見たのか?ヒカル」
「うん。知識としては知ってたけど、目の前で見るのは初めてで…。ごめんなさい」
「なにも謝ることじゃない」
沈み込んだ光を宥めるように、ランティスは右手で光の左の二の腕を何度もぽんぽんと叩いている。
「…偽善だよね…」
「…ヒカル?」
「ベジタリアンって訳じゃないから、私だって動物の肉を食べてるのに、家畜は食べてよくて、野生の兎…ラパンは
助けてあげたいだなんて、なんか思い上がってる…っ」
「そうは思わない。それが自然の摂理だと知っていて、それでも助けたいと心が動いてしまう――そういうヒカルの優しさが、
俺は好きだ」
いつになく揺らぎやすい光を宥めながら、ランティスは趣味で日本語の書を嗜むようになったというレディ=エミーナの言葉を
思い出していた。
『「秋の心」って書いて、「愁い」って意味なんですって。よく言ったものだと思わない?寒くなると古傷も痛みやすいものだし、
気をつけておあげなさいね』
少し落ち着いてきたところで、早目に城へ戻ろうとランティスが促したが、「せっかく遠くまで来たのだから、もうちょっと
ここに居たい」と光のほうがせがんだ。こんな些細なことでも望みが叶えられれば気分が紛れるだろうかと思い、ランティスも
それを承知した。
ランティスにセフィーロのさまざまなことを教わりながら、二人っきりで城から遠く離れた森を歩いてるなんて、おままごとと
いうよりデートみたい――ふとそんな考えが湧いて、光は自分の頬が赤らむのを感じた。そんな光の顔色に気づいたランティスが、
すっと額に手を伸ばした。
「少し寒かったか?熱はないな」
「あ、うん!何でもないって。ほら、見て、見て!小川があるよ」
自分の突拍子もない発想をごまかしたくて、光は目についた小川へと駆けていく。澄み切った川の水をぱしゃりぱしゃりと
掻き混ぜながら、また光は物思いに耽っていった。
「デートって、風ちゃんとフェリオみたいな恋人同士でするものじゃないか。ランティスと私はそんな関係じゃないし…。
ランティスにとっての私って何なんだろう?いつだって私のこと、すごく大切にしてくれてる。高校受験の頃も、私のために
慣れないメディテーションまでしてくれたり…。じゃあ、私は?私にとってのランティスは…。エメロード姫に招喚されなかったら、
絶対に逢えなかったひと…。私はランティスの兄様をあやめてしまったのに、いつも『お前のせいじゃない』って優しく宥めてくれる。
…きっとそう言ってくれるのを知っていて、ランティスに許してもらわなきゃ、私が私を許せないから、自分が生きていてもいい
理由が欲しくて纏わりついてる…?嘘だ…、そんなの浅まし過ぎるっ…!」
光は自分の中に見つけたほの冥い感情に愕然としていた。いつまでも水と戯れている光を気にしつつ、目についた薬草を
摘んでいたランティスが、ひと区切りつけて光のそばにやってきた。
「綺麗な水だが、もう冷たいだろう?」
水の冷たさに赤みさえさしている光の手を、ランティスは大きな両手でくるみこんだ。
「ランティスまで濡れちゃうよ」
「こんなに冷え切って…。考え事でもしていたのか?」
澄んだ蒼い瞳に見つめられると、心の中の何もかもを見透かされてしまいそうだった。
「…なんでもない…」
そんな言葉が口から紡ぎ出されても、ランティスの両手の中の強張った光の拳が、言葉の主を裏切っていた。光の拳を
離したかと思った次の瞬間、ランティスは光を抱きしめた。
「なんでもない、なんて表情(かお)じゃない」
「ホントになんでもないんだ」
抱きしめていた腕を緩め、やんわりと両肩を掴んで片膝を着き、ランティスは光と視線を合わせた
「じゃあ、気分でも悪いのか?」
瞳の奥を覗き込むようなランティスに、知られたくない思いを抱えた光が叫んだ。
「ランティスに心配してもらうようなことなんか、なんにもないんだったらっ!」
思いがけずぶつけられた激しい拒絶の感情に、光の肩を掴んでいたランティスの力が緩む。自分の口から飛び出して
しまった酷い言葉に、光自身が傷ついた顔をして両手で口許を押さえていた。ぽろぽろと零れる涙を拭いもせずあとずさり
ながら、光は「違う…」と呟き何度も左右に首を振った。
「あの、ちが…、そうじゃなくて…」
混乱しきっている光に、大きく息を吐き出して自分自身を落ち着かせてからランティスは穏やかに呼びかけた。
「ヒカル…」
「触らないで!」
頬に触れようとしたランティスの手を振り払い、光はさらにあとずさった。
「今は嫌だ…。少しだけ…、少しの間でいいから、ひとりにしてっ!」
くるりと踵を返して、光は森の奥に駆け出した。野生のアーレンスも居るようなところでひとりにするのはどうかと思いながら、
初めてと言っていい光の拒絶に、ランティスは縫いつけられたようにその場を動くことが出来なかった。
「ランティスはなんにも悪くないのに…。私が酷いこと考えてたの、知られたくなかっただけなのに…。あんな言い方は
最低だっ…!」
森の木々の合間を駆けながら、光は自分を責めていた。
「たったひとりの家族を…、兄様をランティスから奪ったのは私なのに…。どうしてあんなに優しくしてくれるんだろう…。
メディテーション始めたのも、やめたのも私のこと考えてくれたからだし…」
高校受験を控えた冬休み、心身ともに酷く疲れていた光を癒すために、ランティスは不得手ながら光にメディテーションを
施していた時期があった。光自身も慣れてきてからは、お互いを癒し合えるようにもなっていた。頻繁にランティスとふたりきりで
過ごす光を変に心配した海たちが、大騒ぎしたことさえあったぐらいだ。高校入試を終えて満足のいく結果を報告した光に、
ランティスはメディテーションの中止を告げた。光の心身の状態が安定してきたこと、成長過程の光が自立心を養うのを
妨げてしまうのが心配なこと、そしてランティス自身に訪れた変化――幼い頃から導師や兄のザガートが誘導しても上手く
いかなかったメディテーションが、光と始めてから急速に上達してきたこと、その結果として『神官並みの力で』メディテーションが
出来るようになってしまったこと――をも包み隠さずに話していた。
「『神官並みの力で』出来るのは、凄いことなんでしょ?その言い方だと、なんだか困ってるみたいだよ?ランティス」
「少し困ってる…」
そう言いながら、ランティスが光に施していたメディテーションと、本来セフィーロの神官が施すメディテーションの違いを光に
教えた。
「…つまり、わりと受け身だったランティスと違って、神官のするメディテーションはもっと積極的に相手の心に入り込めるって
こと…?」
「あぁ。相手の状態に応じて、受け身に徹するか、積極的に入り込むかを切り替えていく」
「お医者さんが出すお薬だって、症状に合わせて分量が変わっていくんだもん。それと同じことでしょ?」
「そうなんだが、力は神官並みになっていても、今の俺はコントロールがまだ上手く出来ない」
「んーと、私たち魔法騎士の魔法と同じで出力調整が効かないってこと?」
「端的に言えばそうなる」
「じゃあ、もうランティスとメディテーション出来ないの…?」
「それはヒカル次第だ。必要以上に踏み込まれたくなければ、今はやめたほうがいい。そのあとは俺の修行次第だな。
あの騒ぎの時に導師が仰ったように、少し真面目にやってみる」
ランティスがそう肩を竦めると、光は何か思いついたように、ポンと両手を打ち合わせた。
「だったら、いつまでって目標があったほうが良くないかな?」
「構わないが、いつまでに?」
「昔、ずいぶん長い間やってても出来なかったんだよね?三年でどう?私の大学合格と競争しよう」
「それでは間に合わない。コウコウジュケンよりダイガクジュケンのほうが、ずっと大変なんだろう?ヒカル」
「そりゃそうだけど…。それって私を甘やかすのが前提になってない?」
「甘やかしてるつもりはないんだが…。一年と言いたいところだが、さすがにそれは無理だ。二年なら間に合うか?」
「本格化するのはやっぱり三年生だから、多分ね。ランティスって決めた以上は絶対達成しちゃいそうだけど、私のほうが
危ないな。もっとがんばらなくちゃ…」
小さくファイティングポーズをしてみせた光の頬に、ランティスが優しく触れた。
「ヒカルの意志が誰よりも強いことは、俺が知ってる。だから、大丈夫だ」
あの約束から、まだ一年半。ランティスがそのことに関してなにも言わないのは、まだコントロールが上手くいっていない
からだと光は思っていた。けれども自身でもどうかしていると自覚できるほど気分が不安定な光を心配して、ランティスが
メディテーションを始めてしまうかもしれない。だから今は、今だけはランティスのそばに居られなかった。いつでも純粋に
光のことを大切にしてくれているランティスに対して、自分がどんなに酷い了見でいたかなど、かけらほどにも知られる
わけにはいかなかった。
ランティスは目を閉じて遠ざかる光の気配を追いかけた。小川から離れかなりでたらめに走っているので、光のほうは
もう自分の位置を見失っているかもしれなかった。問題無く居場所を把握出来ることを確信して、ランティスは大きく息を
吐き出した。
「古傷が痛むどころか、傷口なんか少しも塞がってませんよ、レディ=エミーナ…」
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ラパン…地球の兎に似た動物。スズキアルトラパンより
アーレンス…地球の狐に似た動物。AHRENS-FOX VC(アーレンス・フォックス)消防車より