いつか桜の樹の下で vol.1
「こんにちは。よかった、ランティスがいてくれて…」
制服にサブバッグという、いかにも学校帰りの姿の光にランティスが尋ねた。
「今日はニュウガクシキだと言わなかったか?」
大きな執務机を回り込んできた、紅い髪に紅玉の瞳の小柄な少女がニコニコと笑った。
「うん。ちゃんと在校生代表で歓迎してきたよ」
春休みに遊びに来たときも、「壇上で挨拶することになってるから」と、ぶつぶつ暗記したりセフィーロの者を前に
予行演習をやっていたものだった。
「でね、役得って訳でもないんだけど、新入生に渡す分の予備で余った桜の枝、貰っちゃったんだ」
薄葉紙に包まれリボンを施された桜のひと枝を、光はランティスの前に差し出した。広間から駆けてきたのだろう、
ほんのりと淡く色づく、微かに上気した光の頬のようだと思いながら、そんなイーグルめいた台詞は喉の奥でつかえて
声にはならなかった。
「…これがサクラか…」
「四季咲きもあるけど、『日本の春=桜』ってぐらい、春になると一斉に咲くんだ」
光が練習する挨拶を聞きながら、『サクラってなんやの?』とカルディナが尋ねたのが発端だった。セフィーロでは
近い花を見かけないと三人娘が言い、疑問はそれきりになってしまっていた。当のカルディナは技術交流に赴く
プレセアを伴ってチゼータに帰省中で、しばらく不在になる予定だった。
「カルディナたちにも見せてあげたかったけど、二人が戻ってくるまではもたないと思うな。このソメイヨシノ、
もう満開に近いし」
「『そめいよしの』?」
「桜にもいろんな品種があって、これはソメイヨシノっていうんだ。もっと花びらがたくさん重なってる八重とか枝垂れとか
いろいろあるけど、私はこれが一番好き」
いつものはじけるように元気な光も好ましいが、こんなふうに花に優しいまなざしを向けているさまもランティスには
愛おしくてならなかった。
「その花の樹の下に立つなら…、制服もいいが、フリソデのほうが似合うんじゃないか?」
ランティスの言葉に目をぱちくりさせた光がくすくすと笑い出した。自分の感性はそんなにもズレていたのだろうかと、
ランティスは内心慌てて言葉を探すがありきたりな台詞しか思いつかなかった。
「すまない。今のは忘れてくれ」
椅子に掛けたままのランティスにぐっと顔を近づけて、光がいたずらっぽく笑った。
「あれ、ご要望にお応えしようと思ったんだけど、忘れちゃったほうがいいのか?」
「笑い出すほどおかしな取り合わせなら、無理にすることはない」
ランティスの言葉に、光がふるるっと首を横に振る。
「ちっともおかしくなんかないよ!むしろ渋好みだなぁって。笑ったのは別の理由。なんだかお見合い用のスナップ
みたいだと思って」
スナップは写真の一種だとすぐに解ったが、『オミアイ』とはなんだと考え込んでいると先回りして光が説明を始めた。
「ああ、お見合いっていうのは、結婚を前提に男の人と女の人を引き合わせることだよ。たいてい写真と、釣書っていう
身上書みたいなのだけで逢うか逢わないか決めるんだ」
「好きでもないのに、か」
「逢って話してみたら好きになるかもしれないでしょ?昔の日本では多かったみたい。私や覚兄様にも話は来てるし…」
光の口からさりげなく飛び出した爆弾発言に、イーグル以外に伏兵までいたのかと、ランティスの表情が微かに強張った。
「ヒカルも、オミアイをするのか…?」
「まさか!親戚から話を持ち込まれてはいるみたいだけど、覚兄様が断ってくれてる。海ちゃんや風ちゃんみたいな
いいお家のお嬢さんならともかく、私なんかただの町道場の娘だよ?」
あの二人に比べて光が劣っているとは微塵も思わないが、さりとて見合いをしてほしい訳ではないのでどう言ったものかと
逡巡しているランティスに頓着もせず、光はあっけらかんと笑った。
「それにこの言葉使いだから、どう考えてもお見合い向きじゃないしね」
「何がいけないんだ?」
「うにゃっ?」
真顔で問い返すランティスに、カクッときた光の頭からネコ耳がぴょこんと飛び出した。
「何がって…。えーっと、…違和感ないのか?ランティス」
「だから、何に?」
「私のしゃべり方。『男の子みたい』ってよく言われるし、自分でもそう思うし。直さなきゃダメかなって何度か思ったけど、
上手くいかなくて…」
カリカリと頬を掻いて苦笑する光をランティスは穏やかな瞳で見つめていた。
「俺は気にならない。飾り気がなくて、ヒカルらしい」
「えへっ、そっかな?あのね、この桜を生けてもいい?」
「花瓶はないんだが…」
足元に置いていたサブバッグから、光はさっさと見覚えのある白いシンプルな花瓶を取り出した。
「大丈夫。きっとここには無いだろうなって思ったから、クレフに借りてきたよ。バスルームでお水貰うね」
包みを解いた桜の枝と花鋏を持った光を、花瓶を手にしたランティスがバスルームに案内する。 剣山付き七宝を入れた
花瓶に水を満たし、洗面ボウルに張った水の中で枝を切る光をランティスが興味深げに眺めていた。
「どうして水に刃物を浸けるんだ?錆びてしまうだろう?」
「いま『水揚げ』してるんだよ。水を吸い上げやすいように、水切り…水の中で切ってあげるんだ。桜は特に吸い上げが
良くないから、少し割ってあげなきゃいけないし。生け花はあんまり真面目にやってないから、細かいとこ突っ込まないで」
「…すまない」
「やだなぁ、謝るほどじゃないったら。…このぐらい割ればいいかな…?」
花瓶の周りの水気を拭き取り執務机のところに戻ると、薄葉紙を利用して花瓶敷きを作り、椅子に掛けたランティスから
一番いい角度で見えるようにとためつすがめつやっている。
「出来た!これでどう?」
満開の桜のひと枝より、満面の笑みを湛えた光のほうがランティスには遥かに眩しかった。
「…とても綺麗だ…」
「気に入ってくれてよかった♪」
言い慣れない口説き文句(あれで?w)はものの見事に空振りに終わり、落胆を気づかせまいとランティスは言葉を紡いだ。
「こんな花を見せたら、導師のほうが欲しがったんじゃないか?」
「花瓶に生けるより、長持ちする盆栽のほうがいいんだって。うちにくる庭師の人に相談してみなきゃ」
「無理はするな。導師のわがままを真に受けることは無い」
「うん。ま、出来る範囲で、ね。ホント言うと、クレフが欲しがるかなって思ったから、予防線張ったんだ。『ランティスの部屋に
飾りたいから花瓶を貸して』って」
ペろりと舌を出して小さく肩を竦めた光に不思議そうな顔でランティスが尋ねた。
「何故俺の部屋に…?」
「セフィーロで一番桜が似合うのは、ランティスだと思ったから」
花が似合うなどと言われたのは幼少の頃以来だとランティスが思わず苦笑する。
「そんなこと言われても困るって顔してるね。昔の日本では桜は武士…、ここの剣士や剣闘師に相当する職業なんだけど、
それの象徴みたいに言われてたんだ」
「ラファーガやフェリオも剣士だが…」
「うーん、そういわれたらそうなんだけど、あの二人はなんか違うんだよね。黒髪なとこだけじゃなくて、落ち着いた物腰とか、
身に纏う雰囲気だとか…。それでなんとなくランティスが満開の桜の下に立っていたらすっごくカッコイイだろうなぁって、
勝手に盛り上がっちゃって、押しつけに来たんだ。ゴメンね」
「いや…。いつか満開のサクラの下に立てるように、トウキョウへ行く魔法を探さねばならないな」
「魔法騎士か柱候補しか通れないのかもしれないよ?私たちも上手く連れて跳べないし…」
「毎年春には咲くのだろう?焦らずとも時間はある」
「それがそうでもないんだ。ソメイヨシノって、自然にある品種じゃなくってね。普通には殖えないから、元々一本の木から
『接ぎ木』で人間が殖やしていってるんだけど、植物としての限界がもうそろそろ来るんじゃないかって言われてる。それが
本当なら、元が一本の木だけに日本国中一斉にダメになっちゃうかもしれないって話もあるんだ。だからいつ見納めになるか
解らない花なんだって」
形あるものが未来永劫そのままではいられないのは何処の世界も変わらないなと思いつつ、いまそこにあるはかない命を
慈しむ光の姿がランティスには得難く美しいものに感じられた。
「環境が変われば、ながらえるんじゃないか?」
「…この枝こと?多分、それは無理だ。接ぎ木をするにも台木はたいてい桜の別の品種を使っていたはずだし、接ぐのも
確か花の時期ではなかったと思うよ。ランティスって、やっぱり優しいね」
「俺は別に……」
「だからせめて、花が散ってしまうまでの間、愛でてあげればいいと思う。ほんのひと時、人に愛される為に切られた枝
なんだから。少しでも長く、頑張るんだよ」
そっと花瓶に手を添えてそう呟いた光に、ランティスが告げた。
「ここがどこだか忘れたのか、ヒカル。それに今宵は朔の月――願い事をするならうってつけの夜だ」
「『サクノツキ』…?」
「新月といえば解るか?願い事があるなら、新月の夜にするといい」
「残念。お泊りじゃないもん。でも、信じる心が力になるここなら、この子も少しは長く咲いていられるかもしれないね」
「だといいな」
「じゃ、今日はこれで帰るよ」
「さっき来たばかりなのにか?」
少し驚いているランティスに、光が内緒話でもするように小声でいった。
「入学式の後に桜を貰って急にここに来ることを思いついたから、覚兄様のお許し貰ってないんだ。『東京タワーに寄り道
するから』って、留守番電話には伝言入れたんだけど。イーグルのところにも、今日はちょっと寄る時間がないんだ」
「兄上に心配をかけては気の毒だからな。広間まで送ろう」
「うん!」
さりげなく肩を抱くランティスと歩きながら、イーグルの具合や他のみんなの話を聞きつつ、光はランティスの部屋を後にした。