春 咲 小 紅 -Umi-
「♪Humm……」
キッチンで懐メロの≪春咲小紅≫なんぞをハミングしながら、バスケットに自分で焼き上げたマドゥレーヌや
クッキーなどを慣れた手つきで詰めていると、龍咲凌駕が顔を覗かせた。
「朝からいい匂いがすると思ったら…、何処かに出かけるのかい?海」
「おはよう、パパ。お見舞いに持っていくの。もう面会しても大丈夫っていうから」
「海…。面会謝絶だった方ならお菓子は無理じゃないかね?」
ふと眉を曇らせた父親に海がくすくすと笑い出した。
「やだパパ、病人さんのところに行くのにこれはないわ。怪我人さんならともかく。この間ペットクリニックに
入院した病にゃんのお見舞い。食べるのは飼い主のほうよ」
「アスコットくんと言ったかな。とても面倒見がいい子のようだね。毎日のように顔出ししてるらしいよ」
「ふうん…」
相変わらず同級生には馴染みきっていないらしいが、それでもチーム・ランティスの応援団に選ばれたことで、
否応なしに人の輪に引きずりこまれてるといった風情だった。
「出来たっと!パパとママにはシフォンケーキ焼いてあるから、二人でゆっくりお茶してね。晩御飯までには
帰りまぁす!」
エプロンを外すと蓋をしたバスケットを手に海がひとつウインクしてキッチンを出ていった。
フェリオとアスコットが住むマンションの最寄駅で改札を抜けると、どこかで見かけたせいたかのっぽが人の
多さに耐えつつこっちを見ていた。
「お、おはよう!ウミ」
「おはよ。動物病院の場所は判るから迎えはいいって言ったじゃない」
人見知り屋どころか引きこもりすれすれではないかと見極めていたので、ラッシュの電車で通学するのも
はとこのフェリオなしでは辛そうな気がしていた。だから迎えは断ったのだ。ペットクリニックには用がなかった
ものの、隣接する院長先生のご自宅でのホームパーティーには何度もお邪魔していて電車で来ても道は
判っていたからだ。
「ほら、これも買いに来なきゃいけなくてさ…。フェリオが駅前のベーカリーの胚芽入りブレッドを気に入ってて、
明日の分の買い出ししてたから」
微かにこうばしい香りのする茶色い紙袋をアスコットが示す。本当は今日出かけているフェリオが帰りに買って
くれば済む話なのだが、『君を迎えに来たかったから』とは言い出せない、はにかみ屋の言い訳だった。
「あら…。私、パンも焼くのよ。アスコットはどんなパンが好き?」
「クロワッサンとか…。国にいるころはペイザン・オ・フリュイが好きだったかな。ナッツやドライフルーツが
いっぱい入ってるんだ」
「クロワッサンはたまに焼くけど、それはまだやったことがないわね…。焼いたら食べてくれる?」
「ももも、もちろんだよ!」
自分で食べたことのないものを作るのはちょっぴり難しいのだが『これで試食人を確保出来たわ』と、やっぱり
微妙に罪作りな海だった。
働く飼い主の利便性を考慮して日曜・祝日も開院しているクリニックはそこそこ混み合っていた。
「…おはようございます…」
毎日来ているらしいのに、アスコットはまだおっかなびっくり挨拶している。
「おはようございます。今日は早いのね。さてはこのあと海ちゃんとデートかしら?」
休日の受付にいたのは海とも親しい院長夫人だ。自分の子供と同じ年頃のアスコットにも心安く接していた。
「デ、デートだなんて……っ」
『デート』の言葉にどぎまぎするアスコットをあっさりスルーした海が、小さな紙袋を差し出した。
「お久しぶりです。よかったらこれお召し上がりになりませんか?今朝焼いたばっかりなんです」
「あら、ありがとう。海ちゃんのお菓子は絶品ですものね。さあマリノちゃんがお待ちかねよ」
「…じゃ、ちょっと見てきます」
「マリノって名前にしたの?メスだったんだ」
「う、うん」
どんな意味だと突っ込まれたらどうしようかとドキドキしていたアスコットだが、さいわいというか残念なことに
というか、その質問はなかった。
「マリノ、おはよ」
あの時みすぼらしいまでに薄汚れていた仔猫は、清潔にしてもらい眼もぱっちりと開いていた。毛が禿げていた
部分も産毛のような細い毛が生え始めている。
「わぁ、しっかり食べてるのね。ずいぶんふっくらしてきたじゃない」
「ウミが言ってたように、お腹を壊さない仔猫用ミルクがっつり飲んでるんだって」
「青い瞳だったんだ。病院に連れてくる時は眼が開かないぐらい眼やにが出てたものね。もうちょっとで退院
出来るんじゃない?」
「来週ぐらいにはね、だけど…」
そのわりにはアスコットのほうに元気がない。
「退院するの、嬉しくないの?」
「そんなことないよ!ただ…先生がいい顔してくれないんだ」
「先生って、院長先生?」
患畜が軽快退院すれば評判の向上に繋がるはずなのにと海が小首をかしげていた。
「僕らは二人暮らしで朝から夕方まで留守になるだろ?マリノはまだちっちゃいから、そんなに長時間放って
おくのは感心しないって…」
海から見ればあんなみすぼらしい猫を拾って飼うと宣言して、おこづかいから入院費用を賄っているだけでも
感心なのに、小さな生命を預かる獣医師はそれだけでは合格点をくれなかったらしい。
「そっか。小さいうちはまめに世話してあげなきゃいけないのね」
「ふた月もしたらご飯も朝夕で構わないし、手もかからなくなるんだけど…。それまで入院させておく訳にも
いかないし、なんだったら貰い手を探そうかって言われててさ」
「入院費用巻き上げるだけ巻き上げて!?」
非難の色をあらわにした海の声に、背後から咳ばらいが聞こえた。
「そこまであこぎではないつもりだがね。その場合は入院費用を返そうとも言ってあるよ」
「マリノを助けるって決めたのは僕だし、薬だってタダじゃない」
院長の言葉に頑としてアスコットは譲らない。
「慈善事業家を気取るつもりはないし、次から次へと飼う気のない動物を持ち込まれるのも確かに困るがね。
聖レイアに通うぐらいだから裕福なのかもしれんが、中学生が支払うには正直過分な金額だったろう」
「別に裕福なんかじゃ…」
どちらかと言えば身寄りらしい身寄りもなく、小国の王子の側近を務める勤労学生の類いなのだが、それを
明かす訳にもいかない。
「手がかかる反面、一番可愛い盛りでもあるんだ。手のりサイズでちょっと足元が覚束ないさまが保護意欲を
そそるとでもいうのか…。だから手放すなら早くに決断するのがマリノの為でもあるんだよ」
「………」
院長の言はもっともで、アスコットは反論の余地もない。さりとて彼もマリノに情が湧いているのだ。
「……ちょっと失礼」
俯き加減に黙り込んでいるアスコットと院長を見比べていた海が、小走りで建物の外へと出ていった。いきなり
どうしたのだろうというふうに、二人揃ってその後ろ姿を見送っている。
「そういえば…君は海君と同級なのに、二つばかり下なんだね。うちの娘も同じ年の生まれだが、まだ小学
五年生だよ」
患畜のカルテを作る時に飼い主の連絡先他を記入しているので、不思議に思われても仕方がない。
「国にいる頃に二年スキップしましたから…」
「ああ、海外は飛び級が定着していたか。『末は博士か大臣か』だな…」
「??スキップしただけで博士?」
よく解らないという顔のアスコットに院長が笑った。
「いやいや。優秀な子供に対する日本の褒め言葉だよ。あるいは馬鹿親の過分な期待だ。飛び級するほどなら、
何か目指すものはあるのかね?」
同じ学校へ通えるあてなんて1%もなかったけれど、目指していたのは海と同級生になることだった。とても
幸運なことにその1%を手にすることが出来たが、『その先』なんてまだ手探りすらしていなかった。
「将来…」
フェリオだって自分と同じように成長していくのだから、いつまでも≪ご学友≫なんてものも必要ない。姉君が
継承されているとはいえ、あちらに子供でも生まれない限りは、第一継承権を有する王弟殿下として国の要職に
つくだろうが、その時自分がどうしているかなど考えたこともなかった。大臣などという器でないことだけは解る、
というぐらいだ。マリノのことだけでいっぱいいっぱいだったのに、新たな悩みが降って湧いたという顔つきの
アスコットの肩を、院長が宥めるようにポンポンと叩いた。
「まあ、おいおい考えればいいよ。君のように本当に動物を大切に思う者にこそ、獣医師になって欲しいもの
だがね」
「動物嫌いな人はならないんじゃないかと…」
「嫌いではなかったんだろうが、利潤の追求に血道をあげる同業者も少なからずいるよ」
今でも人に囲まれるよりは動物と触れ合っているほうがホッと出来るアスコットにとって、それはなかなか
悪くない職業のように思えた。先進諸国ほどではないにしろセフィーロでもなにがしかの動物をペットにする
家庭は多い。少し郊外に行けば牧場で飼育される大きな動物たちもいる。先人の知恵ともいうべき薬草療法を
施すことがほとんどだが、新しい治療法を取り入れることを考えるものもいいかもしれない。最大の問題は
獣医学部に行けるほどアスコットの成績がいいかどうか、というあたりだったりするのだが。
そんな話をしつつエリザベスカラーを気にして暴れているマリノをじゃらしていると海が戻って来た。
「おじさま、もうひと月かふた月ほど育ったら、アスコットがマリノを引き取っても大丈夫なんですね?」
「一定ラインの健康状態を保っていることが大前提だがね。≪寝る子≫だから≪ねこ≫というぐらい、寝ている
時間の多い動物だし、夜行性だから帰宅してから遊んでやればいい。日中お腹を空かせるのが心配なら
自動給餌器を利用する手もある」
「日本にはペットシッターって仕事があるって聞いたけど、相場はどのくらいなんだろう…」
入院費用より高くつくんじゃないだろうかと、さすがにアスコットが唸っていた。
「一日や二日ならともかく、いくらふんだくられるやら。んっふっふ〜♪ボランティアで二ヶ月面倒見てくれる人
確保したわよ。餌代もみてくれるし、バッチリ!」
「ほ、ホントに!?」
ずいぶんと都合のいい話に院長が釘を刺す。
「しかし情が移って手放したくないなんてことにはならんかね?」
「それも心配ご無用!だって、うちのママですもの」
「ええっ!?」
「こう言ってはなんだが…、君の家で動物を飼ったなんて話は一度も聞いた記憶がないが」
「…ちっちゃい頃に野良猫に引っ掻かれて『猫ひっかき病』になったことがあるから怖かったんです。猫は
引っ掻くものだってもう解ってるし、アスコットからマリノを引き離すのも可哀相だし。ママは動物好きだけど、
夏休みなんかに長期旅行とかするから、そういう意味ではうちもペットを飼うのに適さない家なんです。
お手伝いさんはいるけど、任せっきりなのはなんだか違うと思うから。最長でも一学期いっぱいってことで、
どう?」
「どうって…。それは願ったりだけど、いいのかな」
「いいのよ。一番可愛い時期に遊ばせて貰うんだから。時々様子を見にくればいいわ。マリノに忘れられたら
大変だものね」
応援合戦のカルテット練習で頻繁に鳳凰寺家に出入りするフェリオを羨ましく思っていたが、思わぬところで
龍咲家に出入りするオフィシャルな口実が出来て、アスコットは舞い上がりそうだった。
「マ〜リノ〜ウミッ!マ〜リノ〜は〜ウミ〜っっ!!」
心が舞い上がったアスコットの頭上に微かにピンクがかったオオバタンが突然舞い降りて、わさわさと羽根を
羽ばたかせて相撲の行司の呼び出しのように高らかにさえずっていた。
「ってててっ!こら、アレックス!頭に乗るなってば。痛いんだったら、爪がっっ!」
腕に乗り移らせ、『余計なこと喋るな!』とばかりに睨みつけるが、そんな睨みが大型オウムに通じるはずも
ない。余りの大きさに海はおっかなびっくりだ。
「…ずいぶんおっきな鳥ね。それにしても…『舞の海』?相撲好きなオウム??」
「あははは、そ、そうなのかな?」
アスコットとしては海の勘違いにホッとしつつ、それに便乗して誤魔化すしかない。
「お父さぁん!アレックス、またカラスと喧嘩してたぁ〜!」
駆け込んできたのはアスコットと同い年だという院長の娘だ。こちらはいかにも小学生といった幼い雰囲気を
残している。
「伽羅、あれほど外でアレックスを放しちゃいけないと言っただろう?飛んできたぐらいだから大きな怪我は
ないはずだが…。急患以外は受付でちゃんと順番待ちしなさい」
「はーい。アレックス、おいで!」
伽羅が腕を差し出すが、アスコットのことを気に入っているのか、長い前髪をはみはみしたりして離れようとしない。
「マぃノ〜ウミ〜♪マリノはぁウミ〜っ!」
相変わらず上機嫌で喋るアレックスにアスコットが焦って言う。
「ほら、ご主人様が呼んでるじゃないか、アレックス」
「また言ってる。アレックスに変なこと教えたの、アスコット君でしょ!?最近ずっとそればっかりなんだから…」
「お、教えてないよ、そんなこと……っ」
そう、積極的に教えたつもりはなかった。ただ、毎日マリノに海のことを話しているうちに、カラスとの喧嘩で
怪我をして入院中だったアレックスが勝手に言葉をつなげて覚えてしまったのに過ぎない。これ以上余計な
おしゃべりを海に聞かせない為にも、アスコットはアレックスを伽羅の腕に止まるように差し向けた。アレックスを
つれて待合室に行く娘の後姿を見ながら院長が言った。
「ずいぶんアレックスに気に入られたね。家族以外はここのスタッフでもなかなか触らせないやつなんだが…」
「そうなんですか?髪色がこれだから、止まり木かなんかと間違われてる気がしますけど」
言われてみれば昔から動物受けだけは何故かよかったなと、海と出逢ったころを思い出す。
「院長、ちょっとお願いします」
「今行く」
スタッフに声をかけられた院長が、アスコットたちを振り返る。
「来週末ぐらいには退院できると思うから、その方向で調整しておいてほしい。いいね?」
「はい」
「はい、おじさま。ねぇ、アスコット。時間があるならこれから買い物に行かない?マリノが使うエサ入れとか、
一緒に選びましょ」
「う、うん!」
これまた願ってもない海の申し出に、一生分の幸運を使い果たしてるんじゃないだろうかと思わず心配になる
アスコットだった。
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°
ペイザン・オ・フリュイ、風の杜のやつは絶品です♪県外に行っちゃったけど、また食べたい(≧∇≦)
マリノ…トヨタ スプリンター・マリノ。カローラ・セレスの姉妹車。CMでは「海へ、マリノ」というキャッチコピーがついていた。
「海の〜」を意味するイタリア語由来。こちらでCMが見られます。
ちなみにウチが乗ってたのは1本目のCMのCRESTAでーす(バブリーだったあの頃…)
アレックス…トヨタ アレックス。カローラFXの後継車。世界一賢いといわれたヨウム(オウムの一種)の名前でもある。(「アレックスと私」より)
伽羅…ペットクリニック院長の娘でアスコットと同い年。スズキ キャラより。