ふたたび出逢う君に… vol.2
――セフィーロ城・イーグルが療養している部屋
記憶を失ってからというもの、酷い頭痛に苛まれているというわりに、起きている間中ランティスはずっと魔導書を
繰っていた。
『ずいぶんと熱心ですね。記憶を取り戻す魔法でもあるんですか?』
「そんな物があるなら導師が知っていそうなものだが…」
一旦読み始めると「本当にちゃんと内容を理解してるのか」と突っ込みたくなるほどコンスタントにページをめくって
いたランティスだったが、あの日以来、そのペースが時折乱れていた。まるで本を繰る合間に、物思いにでも耽って
いるかのように……。
ランティスは自分自身でも呆れてしまうほどに、気づくとあの少女の気配を探していた。泣かせてしまった理由も
いまだ思い出せないのに、また泣かせてしまうかもしれないのに逢いたいと願うのは、酷い我が儘だと解っていても
その望みを消し去ってしまうことが出来なかった。
ページを繰る音が途絶えてしまったのに気づき、イーグルがくすりと笑った。
『ヒカルなら来ませんよ』
「・・・」
図星を指されてだんまりを決め込んでいるランティスにイーグルが言った。
『彼女たちもいろいろと忙しいですからね。週末ぐらいしか時間が取れないみたいです』
「シュウマツ?」
『あの子たちの暮らす地…域では七日をひとつの単位として、週という概念があります』
うっかり地球と言いかけて誤魔化したイーグルだったが、ランティスは特に引っ掛かりもせず、話の続きを待っていた。
『そのうちのラスト二日、土曜日と日曜日というのをまとめて週末と呼ぶんです。学校や一部を除く仕事もお休みに
なるんで、その休みを利用して顔を見せてくれてるんですよ。本来なら夏休みっていう長期休暇中ですけど、三人とも
学校の部活があるから週末以外は自由が利かないみたいです』
「ガッコウのブカツ…」
聞き覚えのない言葉にランティスは戸惑いを隠せない。
『えーっと、学校っていうのは同じ年代の子供たちを集めて勉強させる機関です。オートザムに士官学校があったのは
知ってますよね?あれの軍事教練なしのやつに通ってるんだと思えばいいです。全員という訳じゃないようですが、クラブ
活動といって好きなスポーツや趣味の集まりに参加するそうです。眼鏡のお嬢さんは弓道部で弓を、青い髪のお嬢さんは
フェンシング、ヒカルは剣道という剣術の一種をやってるんです。ヒカルに関していえば、あなたやラファーガとも手合わせ
出来る腕ですよ』
「……」
『あなたがどこまで本気をだしていたかは知りませんけどね。昔、ラファーガを打ち負かしたことはあるそうですから』
負傷したランティスが意識を取り戻した時に見た男が、確かラファーガと名乗っていた。ランティスがセフィーロを出た後に
親衛隊長を拝命していたという大男(ってお前が言うなw)を、あんな小柄な娘が打ち負かすなどありえるだろうか。
「……ずいぶん詳しいな、お前…」
『もしかして、僕に妬いてます?』
「ばかを言うな」
『この程度のことなら、記憶をなくす以前のあなたも知っていたことですよ。覚えていないようだから、とりあえず説明して
いるだけです』
忘れてしまったことはいったいどれだけあるのだろうと考えの海に沈みかけたランティスに、イーグルが意味深な言葉を
投げかけた。
『あなたとヒカルがどういう関係だったか、気になりますか?』
「関係…?まさか……」
どうやらセフィーロの者ではないらしいから、見た目通りの子供に違いない。それなのにあんな年端もいかない娘に、
自分はいったい何をしたんだと、しかもそこまでしておいて忘れてしまったのかとしかめっつらになったランティスの空気を
感じとり、イーグルがクスクス笑い出した。
『やだなぁ、何を想像してるんです?関係というと生々し過ぎるかな。距離感と言い換えてもいい。あなたがヒカルをどう
思っていて、ヒカルがあなたをどう思っていたか、ぐらいの意味合いですよ』
「紛らわしい…」
とんでもないことをしでかした訳ではなさそうだと、小さく息を吐いたランティスにイーグルが続けた。
『大まかなことを周りが教えるのは簡単です。あなたの兄上やエメロード姫に何が起きたのか、それからのセフィーロに
何が起きて今日に至ったのかは、もう動かしようのない事実だから導師から説明もあったのでは?』
「ああ」
『この先、記憶が戻らないにしても、ここで暮らしていくんでしょう?』
「もう旅に出る意味もない。≪柱≫のいない、新たなセフィーロの安定の為に、出来うる限り力を尽くしたい」
たった一人の兄とその想い人の為に何ひとつ出来なかった自分に出来ることは、それぐらいしか思いつけなかった。
『だったらなおさらです。生きている人たちに対しては、一から関係を再構築する覚悟を決めるべきですね。たとえ以前と
違っていても、ここの人たちはみんなその変化を受け入れる度量があります。侵攻してきた僕ですら、こうして受け入れて
くれてるんですから』
「ヒカルとも、そうしろと…?」
『あなたがそうしたければ、ね。例えば、≪あなたはヒカルの恋人だったんだから、それらしく振る舞いなさい≫と僕が
言ったからって、いきなり従えないでしょう?』
「…それが事実なら、努力はする…」
『そんな見え見えの努力なんて、相手を傷つけるだけです。ましてや年頃のお嬢さんなんですから』
「……」
『あの子たちはあと二、三日は来ないはずだから、まずはヒカルとどうありたいのかから考えればいいんじゃないですか』
柱制度がなくなって以降に見られるようになったというセフィーロの気候の変化。まるでチゼータを思わせる≪夏≫の
気候を示している今のセフィーロの、沈みきる間際でも力強さをたたえた太陽のような紅玉の瞳。夕映えにたなびく雲を
思わせる、紅くふわふわと柔らかそうな髪。凛とした強さを秘めた声を紡ぎだす、紅をさしたように艶やかなくちびる。
あの時、泣きそうになりながらも視線をそらさない顔に重なって聞こえた『なぐってくれてもいい!』という痛いほどの叫びは、
ランティスの脳裡にこびりついていた。
あれが忘れてしまった記憶の一部なら、いったい何を話してあんな苦しげな顔をさせてしまったのかと、ずっと気にかかって
いた。もしかしたら、光にとってあまりいい出逢いではなかったのかもしれない。それでも見舞いに来てくれた時の光が、
ランティスの回復を心から願ってくれていたのは疑いようがなかった。
これまでの長い人生の中で一番失いたくない物をなくしてしまったような気がして、ランティスはもどかしくてならなかった。
夏休みの日課の部活も終え、当番の後輩と修錬場の戸締まりを確認すると、並んで駅へと向かう。学園でも一、二を
争う人気者の光を独り占めしている後輩は、嬉しくてしかたないという風に、引っ切りなしに話し掛けていた。
「先輩はペットを飼ってらっしゃいます?」
「うん。閃光って、すっごく大きな犬がいるよ。幼稚園の頃から一緒なんだ」
「先輩のお家は道場なさってるんですよね。番犬用のドーベルマンか何かですか?」
「私のことは確かに守ってくれるけど、番犬って訳じゃないなぁ。ペットっていうか、家族だし。もともと警察に保護されてた
迷い犬だから、血統はよく判らないんだ。別に血統書なんかなくたってかわいいよ」
「ですよね。私はずっと猫を飼いたくて、それこそ拾った猫でいいと思ってたのに、知らない間にママがお友達から譲って
もらってきてたんです」
「ふうん。どんな猫?」
「ラグドールって、ぬいぐるみって意味の名前がつくぐらい、かわいくておとなしいらしいんですけど…すごくおっきくなる猫
なんですよ」
「ラグドール…?ゴメン。初めて聞いたよ」
「じゃあ見にいらっしゃいませんか?いまならまだちっちゃくて、手乗りサイズですよ」
「でも突然お邪魔しちゃご迷惑だよ…」
無断で寄り道して遅くなると兄たちも心配する筈だしと、光は遠慮していた。
『ランティス!お外に行っちゃいけませんって、何度言ったら解るの!?』
≪ランティス≫という言葉に、光がびくんと足を止めた。綺麗に手入れされた植え込みから小さな茶色っぽい影が走り
出してきて、立ち止まった光の二、三歩先にいた後輩に飛びついた。
「わあっ、たっ、たぬき?!しかもランティスって…」
「あーっ!また脱走して〜!!先輩、たぬきじゃなくて、この子がさっきお話したラグドールです。おとなしいらしいのに、
まだ家に慣れないのか、ときどき飛び出しちゃって…。ラクティスっていうんですよ」
ランティスのことばかり考えていて、うっかり聞き違えていたらしい。
「あ…ラクティス、ね。ヒマラヤンとバーマンも違いがよく解らないけど、ラグドールもなんか似てる?」
「私もよく解らないんですけど…。チンチラのシールポイントがヒマラヤンで、バーマンは白ミトンに白ソックス、ラグドールは
バーマンよりおっきくなるとぐらいしか…。あれ、違うかな…」
後輩が抱き上げたラグドールのラクティスは、サファイアブルーの瞳とお揃いの青い首輪をつけてもらっていた。光のしっぽ、
もといお下げにじゃれつくたび、首輪の小さな鈴がちりちりと音をたてる。手渡された子猫に笑いかけながら、光は今年の
誕生日の星見の夜、ティターニアの森で見た夢を思い出していた。
――もしもいつの日かこんな風にランティスが遠く離れていくとき、
自分は果たして聞き分けよくやり過ごすことができるんだろうか――そう考えるだけで、胸がちくりと痛んだことを。
いつの日かどころか、あまりにも唐突に、それは現実となってしまった。
なにもランティスがどこかへ行ってしまって二度と逢えない訳じゃない。彼の療養中ならセフィーロに行きさえすれば
ほぼ間違いなく会えるだろう。けれどもそれは単に顔を合わせているという状態に過ぎない。記憶をなくしたランティスに
とっての光は、顔見知り以下の存在でしかなかった。彼の知らない「学校」での話をしたり、光たちがいない間の
セフィーロの出来事を聞かせてもらったり、そんなたわいのない、でも穏やかなひとときをランティスのそばで過ごす
ことは、もう二度とないかもしれない。
家に帰れば家族が出迎えてくれることと同じぐらい、セフィーロでランティスたちと過ごせることは光の中ではごく自然な
ことになっていた。
ランティスのそばにいることがあまりにも自然で、それを当たり前のように享受してきた自分の無神経さに、その空気を
取り上げられるまで気づけなかった。
どんなに光一人がそれを希っても、ランティスが光と過ごすことを望まない限りもうあの時間は戻らない。記憶が戻れば
まだ望みはある。けれどもこのまま記憶が戻らなかった場合、新たに人生をやり直すランティスがまた同じ選択をするとは
限らなかった。自分が救おうとしていた兄とその想い人を殺めた魔法騎士を赦せず、仇を討ちたいと願うかもしれない。
ランティスがそう望むのはむしろ当然のことなのだ。たとえやむを得ないことだと赦してくれたとしても、これ以上光と過ごす
ことを望まなければそれまでだった。魔法騎士がランティスの大切な者にした仕打ちを考えれば、光のほうから何かを望む
など出来よう筈もなかった。
「ランティスはいつだって私のことを気遣ってくれた…。もしも逆の立場だったら、ランティスが兄様の仇だったら、同じように
出来たかな…」
あの夜のランティスのように、穏やかに咎人の懺悔を聞き、そもそも懺悔をするような罪などないとさらりと受け流すような
ことなんてきっと出来ない。仇を討つか否かは別として、相手に非がないのを知っていても、泣いて詰って傷口に塩をなすり
つけるが如き態度を取ってしまったろう。
これまでランティスがさりげなく与えてくれていた優しさに、報いるべき時だ。
「…先輩?獅堂先輩!?」
「えっ!?あっ、なに?」
小さなラグドールを抱きしめたまま黙り込んでしまった光の顔を、後輩が心配げに覗きこんでいた。
「いえ、ラクティス抱いたままずっと黙ってらっしゃるから、暑くて気分悪くなったのかなって…」
「あ、ゴメンね。ちょっと考えごとしてたんだ。もう、逃げちゃダメだよ」
子猫を後輩の手に戻しながら言った言葉は、自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。
「やっぱりちょっとお寄りになりませんか?顔色が少し良くないみたいですよ」
「大丈夫。用事があるから今日は帰るね。また二学期に!」
きゅっとくちびるを引き結んで空を見上げると、光は駅へと駆け出していった。
あれから記憶喪失に関して図書館で調べたり学校の養護教諭に聞いてみたりもしていたが、専門外の者に
解決策など見つけられる筈もなかった。たまたまその養護教諭には脳神経外科のツテはあるらしかったが、
本人を連れていくことが叶わないので丁重に辞退した。
「ランティスの為に、私が出来ること…」
もうひとつだけあったのに、自分の弱さで為すべきこともせず逃げ出したのだ。今度こそ正直に告白しよう。
自分にはその結果を受け入れる義務があるのだから。
可愛らしい便箋ばかりしか見当たらず仕方なくレポート用紙を取り出すと、考えながら二通の長い長い手紙を
したためた。そのうちの一通を鍵の掛からない引き出しに仕舞い込むと、光は東京タワーへと出かけていった。