ふたたび出逢う君に… vol.1
――セフィーロ城・イーグルが療養している部屋
「誰か来る…。三人…不思議な空気を纏った…娘たちのようだな」
近づく人の気配を感じ取り、読んでいた魔導書から目を上げたランティスが呟いた。
『三人?ああ、今日はそうか…。きっとあの娘(こ)たちですよ』
地球の暦では今日は日曜日。あの少女がやってきたに違いないとイーグルは思った。彼女たちなら…、いや、
その中の紅い髪に紅い瞳のあの少女ならこの状況を打開してくれるんじゃないかと、部活の都合で週末しか
動けない彼女たちの来訪を心待ちにしていた。
「お前の知り合いか?オートザムからここまで見舞いに来るとはご執心だな」
本人にまったくその気がなくても周りが放っておかなかったイーグルの巻き添えを少なからず食っていた
ランティスは、眉間に皺を寄せて苦いため息をついた。
『そういう訳の判らない手合いには、渡航を許可しないようにジェオに言い渡してありますから』
今現在、オートザム-セフィーロ間はNSXのみが行き来しているので、許可なく一般人が来られるはずもなかった。
――その少し前。セフィーロ城の広間にて
「ランティスが記憶喪失…?」
いつものように広間で迎えてくれたプレセアたちに話を聞かされた光が茫然として呟いた。部活の夏合宿の為に
セフィーロ訪問を飛ばした間に、そんなことが起きていようなどと誰が想像するだろう。
「自分がどこの誰かも判らないほどじゃないけどな。オートザムを離れる少し前あたりからの記憶がないらしい」
肩を竦めたフェリオに返す言葉もない光をちらりと気にしつつ、風がクレフに尋ねた。
「ランティスさんはかなり気配に敏感な方ですけれども、エメロード姫も神官≪ソル≫ザガートもすでにいらっしゃらない
ことを、どのように思われているのですか?」
「それは真っ先に訊かれたからな。魔法騎士の伝説の成就と、その後の三国との戦いに纏わる経緯は話しておいた。
いまはイーグルの部屋で一緒に療養させている」
「へぇ、よく大人しく療養なんてしてるわね」
妙な感心の仕方の海にアスコットが苦笑した。
「導師は怪我を完全に治さなかったんだよ。回復したら絶対外に出て行っちゃうから、命に別状がない程度までしか
回復魔法かけなかったんだ。右の太腿、左の二の腕、肋骨数本骨折したままじゃ、いくらランティスだってそうそう
うろつけないからね。プリメーラは精霊の森に帰ってるし…」
「クレフ…、もう少しぐらい治してあげてもよかったんじゃないか?」
痛そうな顔をした光に構わずクレフは風に向き直った。
「フウ、お前も魔法を使ってはならんぞ。脱走されては敵わんからな」
「…はい。解りました」
「脱走って…」
風に釘を刺すクレフの言葉に苦笑したものの、光の表情は翳りを帯びたままだった。
「とりあえずお見舞いに参りましょうか」
海や風に肩を抱かれ歩き出した光をクレフが呼び止めた。
「ヒカル!待ちなさい」
光はぼんやりとしたまなざしをクレフに向けた。
「いまのランティスは、この国に戻ってくる前の、オートザムに滞在していた頃の状態だ」
「うん…。そこまでの記憶しかないんだよね」
「お前のよく知るランティスとは違う男だと思ったほうがいい」
「…どういう意味?」
「なんちゅうかまぁ、ウチらにはたいがい愛想あらへんかったけど、そらもう百倍ぐらい愛想悪ぅなっとるわ」
ランティスと顔を合わせるとどうにも喧嘩腰になってしまうので、可愛げのない怪我人の世話からはカルディナは
綺麗さっぱり手を引いていた。
「オートザムから戻ったばかりの頃も大概だったけど、いまはもっと酷いからね」
「睨まれただけで斬れそうなぐらい、鋭い目つきしてるからなぁ」
アスコットやフェリオを話を聞きながら、光は出逢ったばかりの頃のランティスを思い出していた。
「鋭い目つき…?そうかなぁ…。出逢った頃、ひとりぼっちで寂しい冬の狼みたいな、悲しそうな目をした人だな
とは思ったけど…」
プレセアと顔を見合わせたカルディナが肩を竦めて光に言った。
「そないにええように言うんは、ヒカルお嬢さまだけやわ。心が広いんやな」
「そんなことないよ。でも、忠告ありがとね。心して行ってくる」
執務室で仕事をしていたり、あるいは中庭の木で昼寝をきめこんでいるランティスを誘って一緒に歩くことも
多かったイーグルの部屋までの廊下が、今日はいやに長かった。
『伝説の成就は話したが、誰が魔法騎士だったのかまでは話していない。イーグルにも口止めをしてあるから、
お前たちも話すんじゃない。解ったな?』
そうクレフに言い渡されたことで、足取りが重かったせいかもしれない。あれほど大切にしていた光の顔を見れば
少しは思い出せるかもしれないと、プレセアたちは期待していた。けれども記憶をなくしてしまったランティスに、
光はどんな顔で接すればいいのか解らなかった。
『一日だって忘れたことなんてないけど、私はランティスの兄様の仇だ…。それでもずっとそばにいられたのは、
ランティスが私を許してくれたからなのに…。それを黙ったままで、いま何も知らないランティスの前に立つなんて、
卑怯なんじゃないか…?』
誕生日に貰ったばかりのブレスレットを右手で握り締め我知らず立ち止まっていた光の肩を、海が景気よく
バシンと叩いた。
「ほら、光ったら。お見舞いに行くほうがそんな顔してちゃ、かえって心配かけちゃうわよ!明るく、明るく!ね?」
「…うん、そうだよね」
気を取り直して、ようやくイーグルの部屋に辿りつく。広間やここのドアは大柄なランティスの背の倍ほども高さが
ある。魔法がかかっているので重いという訳ではないが、ランティスがすぐそこにいるのにわざわざノックして開けるのは
あまりないことだった。
「「「こんにちは」」」
『こんにちは。今日は三人お揃いで来てくださったんですね』
「うん。――あの、初めてじゃないんだけど、自己紹介しておくね。私、獅堂光。いつもヒカルって呼んで貰ってたんだ」
そう言いながら光はランティスのベッドのかたわらに立ち、にこっと笑った。
「私は龍咲海、こっちは鳳凰寺風。ま、私たちは光のおまけだと思ってて」
三人を見ても眉をしかめるばかりのランティスに、光は落胆する心を表に出さないよう必死に平静を装っていた。
『やっぱり解らないんだ…』
扉が開く前に、『これからやってくる三人の中で、紅い髪のお嬢さんと一番長い時間を過ごしていたんですよ』と
教えられてはいたが、本当に自分がこんな子供を気に入っていたのだろうかと、ランティスはイーグルに担がれている
ような気分だった。
「あのっ、『日にち薬』って言葉もあるから、ゆっくり傷を治してればふっと思い出すかもしれないよ。ランティス、いつも
忙しくしてたから、たまには休養だと思って、ね?」
光が両手でランティスの手を取ると、一瞬びくりと腕が強張った。シャランとさやかに音を立てたランティス自身が
選んだ光のブレスレットを気にとめる様子もなかった。光はそっと顔を覗きこむと、励ますようにもう一度微笑んだ。
親しげに笑いかけてくる見知らぬ少女に戸惑いながらランティスが問いかける。
「訊いても構わないか」
「え?なになに?私に解ることかな」
「俺を知っているのなら…」
「うん、知ってるよ」
「いったいどこで出逢った?」
「――えっと、最初に話したのは、広間の入り口だったかな…。セフィーロがオートザムと戦ってたことは聞いてるん
だよね?」
「ああ」
「イーグルに攻撃されてた時にランティスが助けてくれて…、そのお礼を言ったのが初めての会話かな」
それでもやはり何も思い出せないランティスはさらに質問を続けた。
「イーグルが言うには、俺は…ヒカルとよく一緒にいたそうだが…」
どうにも納得がいかない風情のランティスと、そんなランティスを切なげに見つめる光を、海と風はただ見守る
しかなかった。
「…うん、そうだよ…」
やっとのことで紡ぎ出した言葉とは裏腹な想いが、光の中にあふれてくる。
『間違いなくランティスの声なのに…、呼ばれた時の感じがこんなに違うなんて…。本当に…、本当に私のこと、
忘れちゃったんだね』
忘れたくて忘れた訳ではないランティスにそんな風に思うのは筋違いだと理性では解っているのに、心がそれに
ついてきてくれなかった。
「…一緒にいた時、いったい何を話してた?何がきっかけでヒカルと話すようになった?」
お世辞にも社交的とは言えない自分が、助けたからといってこんなに歳の離れた少女と近しく話すなどありえないと
思うランティスがそう尋ねると、光の表情がすっと凍りついた。
「それは…、あのっ、…っ」
みるみる潤みはじめた大きな瞳と、きゅっと引き結んだくちびる。酷くつらそうなのに、それでも視線をそらさず、
まっすぐにランティスを見つめ返す少女。
『なぐってくれてもいい!』
目の前の少女の声で聞こえたそんな言葉と、明らかにたったいま自分が傷つけた少女にランティスはぎくりとした。
『どうしてこの少女の泣き顔が、こんなにひっかかる…?』
以前の自分も泣かせてしまったのかと当惑しつつ、とりあえず何か言うべきだと思うのに、気の利いた言葉など
頭に浮かばなかった。
「ヒカル…」
「ごめんなさいっ!それはちょっとど忘れしちゃったかも…。あのっ、えっと…、私、城下町に行かなきゃいけない
用事があるんだ。帰りに時間があったらもう一度覗くから…。じゃあ、またね!」
早口で言うだけ言ってしまうと、誰の返事も待たずに光は部屋を飛び出していった。事の成り行きに呆気に
取られていた海が、「光、待ちなさいってば…!」と駆け出していく。
その海の後を追おうとした風が、振り返ってキッとランティスを見据えた。
「記憶を失う以前のランティスさんが光さんと何をお話しされたかなんて、いまはお聞きしません。ですけど、
これ以上光さんを傷つけるようなことをなさるなら、海さんも私も承知いたしませんわ。どうぞお大事に」
そう言い残して風も立ち去り、台風一過に茫然としているランティスの耳にイーグルの非情な言葉が突き刺さった。
『いけない人だなぁ…。あんな女の子を泣かせたりして』
「……お前が言うか」
見知らぬ少女に泣かれ、そのことで喧嘩を売られ、それだけでも手に余るのに、友達甲斐のカケラもないイーグルの
言葉にランティスがようやく一言を返した。
『言いますよ。少なくとも僕は、自分が大切にしたいと思った女性(ひと)を泣かせたことはありませんからね。
人となりを知りもせず騒いでる人たちまで数に入れて貰っちゃ困ります』
ずけずけ言ってのけるイーグルをなかば無視して、ランティスは光とのやり取りを思い返していたが、何がそんなに
まずかったのか見当もつかなかった。
「泣かれるような質問はしなかった筈だが…」
『…僕もそうは思いますけど。あの様子だと、フウたちも知らない二人だけの話だったのかもしれませんよ』
「…俺もお前に話さなかったのか」
『あなたがヒカルと知り合った頃、僕はセフィーロ攻略中でしたからね。ここで療養を始めてからでも特に聞いて
ません。だいたい自分で自分がそういうことを話すタイプだと思いますか?』
「…思わない」
お手上げとばかりに深いため息をつき、少女たちの来訪の間軽くなっていた頭痛がぶり返してきて、ランティスは
またこめかみを押さえていた。
まっすぐな心の光のこと、ランティスが何者であるかを知った時の行動など、イーグルには手に取るように予想が
出来た。そしてそれに対するランティスの対応もおよそ見当はつく。
その予想通りだとしたら、光とランティスが口外しなかったのも頷ける話だった。たとえ部分的に記憶を失っていても、
おそらくランティスの対応は変わらないだろうとイーグルは考えていたが、光には自信が持てなかったのかもしれない。
あるいはただ人前では言えなかったか。まだ十代の少女にとって、ずいぶんと酷なリセット≪やり直し≫だと思えた。
『解らないことを悶々と考えていても、もっと頭痛が酷くなるだけですよ。記憶を失くすほど頭を打ってるんですから、
さっさと日記をつけて、横になってたほうがいいと思いますが?』
「あんなことを書くのか…」
『誤魔化しはなしですよ。「見舞いに来てくれたヒカルという可愛い女の子を泣かせてしまった」って、正直にかつ
正確に書いておかないと、記録してる意味がありませんからね』
記憶喪失の患者は本来の記憶を取り戻したときに、それと入れ替わりに記憶喪失だった期間の記憶を失くしてしまう
場合がある――そうイーグルに聞かされ、その勧めでここ数日ランティスは日記をつけるようになっていた。
眉間に皺を寄せたまましばし考え込んでいたものの、諦めたようにサイドテーブルに置いてあった日記帳とペンをとり、
ここ数日での最大の失態を書き込み始めた。
――光の部屋
高校に上がると同時に与えられた自分の部屋で、光はベッドに突っ伏していた。城下町へ行かなければならない
用事などありはしなかった。あの部屋を訪ねる前にそのことについても考えていた筈なのに、いざランティスに面と
向かって尋ねられると答えることが出来ず、逃げるように飛び出してきてしまった。
「なんて卑怯なんだ…。私はいつからこんな意気地なしになっちゃったんだ…?」
ランティスが失った記憶を取り戻す手がかりを求めていたのに、自分はその切り札を持っていたかもしれないのに
その手を払いのけてしまったのだ。「たった一人の肉親の生命を奪った仇が目の前に立っている」程の衝撃的な
出来事ならば、あるいは彼の記憶を呼び起こせたかもしれなかった。
「ランティスが記憶を取り戻せたほうがいいに決まってるのに…、でも、あのことを話してもやっぱりランティスが
何も思い出せなかったら………、いまのランティスが私を許してくれなかったら、顔も見たくないって言われたら……。
そんなの…、そんなのいやだ……っ」
人を殺めておいて赦してほしいだなんて、どだい虫がよすぎる話だ。それでも二度とランティスのそばにいられなく
なることなど、光には痛すぎて耐えられそうになかった。
ドアをノックする音で、光は目を覚ました。
「あ…、眠っちゃってたのか…」
『光、戻ってる?』
そろそろ東京へ帰る時間だからと迎えに来たのだろう。光はミニリュックを手にドアを開けた。泣いていたのが
明らかな光を見て、海も風もかける言葉がなかった。
「もう時間だよね。帰ろ」
二人は左右から光の背に手を添えながら、広間までの静かな廊下を歩いた。
「…消えた…」
『……何がです?』
「あの少女の気配が、たったいまセフィーロから消えた。あれは、何者だ?」
記憶喪失になって以来絶え間なく続いていた頭痛が、昼過ぎから嘘のように軽くなっていた。あの少女が傍に
いた時は特に、全くというぐらい解消されていた。彼女が部屋を出ていくのと同時にふたたび酷くなり始めたので、
それが気になりずっと気配を追っていた。だからあの少女が城下町になど出掛けなかったのも知っていた。
オートザムに滞在するより以前、ランティスはファーレンやチゼータも旅したが、あの少女たちの纏う空気はその
どこの物とも異質だった。三人は名前こそ名乗ったが、それだけだった。いや、手がかりはもうひとつ。『イーグルと
戦っていた』ように言わなかったか?
ランティスは隣のベッドに仰臥する異国の友――元・セフィーロ攻略最高司令官の任にあったという男を見た。
いかに侵攻作戦中とは言え、抵抗の術も持たない民間人に刃を向けるような卑劣な真似は出来ない奴だと
ランティスは知っている。
「イーグル、何故あんな子供と戦った?」
しばらく待ってみたものの、返事はなかった。
「眠ったのか…」
起きてはいたがランティスの問いに答える訳にはいかなかった。その辺りはクレフに口外しないよう厳命されて
いる。それに光を目の前にしてさえ醸し出していた剣呑な雰囲気を思えば、彼女たちが魔法騎士だなんて教えたり
したら、思わぬ事態に至らないとも限らない。光でさえもランティスの失われた記憶を取り戻すことが出来ないと
なると、もう本当に打つ手を思いつけなかった。