未来予想図 -Fuu-
「……綴り違えてる……」
「げっ、またかよっ!だぁぁぁっ!このくそ忙しい時にっっ」
ランティスが魔法でその単語の文字を消し去り、空いたスペースにフェリオが書き直す。朝から延々そんな作業の
繰り返しだった。
普段のフェリオがこんな単純ミスを連発した記憶がランティスにはなかったので、幾許か気の毒には思っていた。本当なら
いますぐ書類の山の二つや三つ蹴散らして、愛妃の許に飛んで行きたいところをイライラしながら耐えているのが見て取れた
からだ。
その思いも無理からぬことで、今朝方やっと陣痛の始まった風を導師クレフとカルディナらに任せたまま、執務室で仕事を
するようにと命じられてしまっているのだから。
『これまでのところフウの経過はほぼ順調です。初産で多少時間がかかろうとも、無事に出産出来る筈です。それなのに
政(まつりごと)を放り出される気ですか?民思いの妃に余計な心配をかける、と?』
≪ほぼ順調≫とクレフは言ったが、光や海…地球出身の女性陣は、『妊娠期間、ものすごく長くない…?』と気にしていた
ことがあったのだ。
自らの妊娠の兆候に気づいた時、確かに風は『最初の結婚記念日は家族三人で迎えることになりそうですわ』とフェリオに
告げていた。地球のジューンブライドにあやかって、宵の火の月の第1の日…地球暦でいう6月1日に華燭の典を執り行った
二人だが、翌年6月30日のランティスと光の結婚式さえまだ二人+α(お腹の中)状態だった。一週間のオートザムへの
新婚旅行からランティスたちが帰国した時もまだ二人家族のままだった。病気のぶりかえしたイーグルを連れての帰国で
ばたついていた光が、翌日のお茶会に大きなお腹を抱えたまま顔出しした風に、『風ちゃん…、産んでもあんまり体重
減らなかったのか……?』と、いつかそう遠くない自分の未来を重ねてか心配げに尋ねていたぐらいだ。
「3、4キロは減っていただかないと、あとのダイエットが大変ですわね。甘えん坊さんなんでしょうか、まだお腹の中にいますのよ」
「…甘えん坊なのか、あははは」
頬をカリカリ掻きながら、光が困惑を隠せないようなのが、フェリオには酷く気掛かりだった。
結婚式こそフェリオたちより半年ほど後だったものの、セフィーロでの主流である地球で言うところの事実婚だったラファーガ・
カルディナ夫妻は二年ほど前に男女の双子に恵まれていたが、やはり心積もりよりも出産が遅かったと話していた。
セフィーロとチゼータもいわゆる国際結婚だが、フェリオたちが暮らすセフィーロと風の生まれ故郷の地球では、その存在次元
さえも違っている。いくら生物としての見てくれが似ていようと、ぷよんぷよんの創造主が手抜きしまくりで共通点が多かろうと、
二つの世界の血を引く子供を身篭る風の身が心配にならない筈がなかった。
最初の変化は風が地球に里帰り出来ない事態から始まった。一緒に東京タワーへ跳んだ光と海が慌ててとんぼ返りしたのと
対照的に、それも想定内だったのか風は少しだけ困ったような微笑を浮かべていた。
たまたまその日セフィーロでは皆忙しく見送りがいなかったのは幸いと、風を気遣いながら一旦海の部屋へと舞い戻った。元の
風の部屋は結婚以来しばらく閉めきりだったし、光の部屋はいつランティスが姿を現すか判らないからだ。辺境へ魔物退治に
出ていようが城下街に視察に行こうが、セフィーロで一番動きの読めない男とさえ言われていた。
「クレフみたいに空間転移やってる訳じゃないよ…?」
「この間だってアスコットも魔物討伐に同行してたのに、事が片付いたら置いてけぼりにされたって歎いてたわよ」
「エクウスはアスコットの友達より速いからね。あのコってせっかちなのかな。なみあしってわりと嫌がるんだ。乗り手を振り落とし
そうなほど全力疾走するのが好きみたい」
遥か長い時を生きてきた精獣も、光にかかれば≪あのコ≫呼ばわりだ。
結婚式以降公式行事に追われて里帰りもままならないままこの事態なので、眼鏡の奥の瞳にほんの少しだけ戸惑いの色が
さしていた。
「新婚旅行で訪ねたファーレンを空お姉様にもお見せする約束でしたのに…。お土産の民族衣装、一年も置いていたら虫に
食われてしまうでしょうか…?」
「樟脳買って来たげるよ!他に要りそうな物も仕入れて来るっ!あ…、ベビーベッドはちょっと持てないかもしれない」
風よりも舞い上がっている光に海が苦笑する。
「持てる持てない以前に、そんな物持って東京タワーの展望台行くなんて怪し過ぎ。こっちの世界にだって赤ん坊はいるんだから、
代わりの物が当然あるわよ」
「なるべくこちらの慣習を重視したいですから。ただ、思い違いということもありますし、簡易検査キットはあると助かります」
「あははは、そういえばそういうのはオートザムに回してないよね、研究用サンプル…」
オートザムでの研究開発用サンプルはたいていイーグルら三人組に預けているのだ。妊娠検査薬なんてデリカシーにあふれる
シロモノを誰が誰に渡すのかとさすがの光も引きつっている。
「うーん…。NSXって医局でも女性見ないし、そもそもイーグルたちが来たからって乗らないしね、あれに…」
イーグルのセフィーロ滞在中は乗組員たちも半舷上陸で休暇を楽しんでいるので、不急の用向きで手を煩わせたくない。
「ま、風の分や私たちが使う分ぐらいその都度持参したってかさ張らないわよ、あんな物…」
「あははは、まあね」
そもそもそう頻繁に泊まって行ける訳でもないので、婚約していてもなかなかそれが必要になるような原因行動に及べないん
だけど…とは口に出せず、光はあさってのほうを向いていた。
不確実なことを口にするのを控えたい本人の意向で、『少し疲れ気味だから風は里帰りを取りやめた』ということでその日は
口裏を合わせた。
三人揃ってよりむしろ一人で行き来する機会が増えてきていた筈なのに、これといった行事もないのに一向に里帰りしようと
しない風をフェリオが次第に心配し始めていた。
何かにつけてクレフに『何かの病の予兆ではないのか』としつこく尋ねたり、光の体調不良に敏感なランティスに『フウの具合
だって、お前、本当は解るんだろ?』と、絡んでいるのかと誤解されそうな勢いで何度も食い下がっていた。
『妃殿下と呼ばれる立場になったのだから、フウとて気疲れも出るでしょう』とクレフは取り合わず、ランティスはと言えば、
『あまり関わりたくない』とまで言い切っていた。
親衛隊長をとうに辞したとは言え、要人警護は彼の職掌の最たるものであり、フェリオの妃である風も当然その対象なのだ。
それなのに『関わりたくないとはどういうことだ!?』とたまたま居合わせたラファーガから横槍を喰らって眉をひそめつつも、
本人だけはなにがしか納得しているふしがあった。
『・・・波動が乱れてるが、この時期はこんなものだろう。あまり煩わせないほうがいい』とフェリオにしてみればさっぱり
要領を得ない言葉を零しただけで、後は頑として口を閉ざしてしまった。
光や海の二人は就職活動こそしないもののそれぞれ前期試験と卒論の準備に追われていて、光に至っては実践第一と
ばかりにバイトも継続していたので、なかなか風に≪頼まれ物≫を届けられずにいた。
『義姉上たちにファーレンの土産を届けるんだろ?しばらく国外の来賓もないし、俺だけで構わないから里帰りしていいぞ』と
勧めれば『体調がすぐれませんから…』と言葉を濁し、『クレフに薬湯でも煎じて貰おうか』と尋ねれば『それには及びませんわ』と
にこりと笑まれてしまう。
寝所で睦言を囁きかけても、『今はそういう気分になれないんです。お休みなさいませ』と背を向けられ、じらされているのかと
思い風を抱きすくめた途端、『それ以上のことをなさるなら、私、しばらく元の部屋で休ませていただきます』などと言われた日には、
新婚早々の夫としては『俺がいったい何をした!?』と言いたくなるというものだろう。
一番気安いのはアスコットだが、この手の相談事には向かない。のぼせて鼻血を出すのがオチだ。ランティスはあれ以来
この件に関して頑ななまでにノータッチを態度で表している。クレフは真剣に取り合ってくれないし、ラファーガは忠誠心から大仰しく
なるしで話の持っていきどころがないのだ。こういう時に一番頼れそうなのがカルディナだが、双子の子育てに忙しいのだろう、
最近なかなか顔を合わせる機会がないのだ。だからといってラファーガの頭越しに相談を持ち掛けるのもどうにも憚られるしで、
フェリオは心底困り果てているのだった。