The Private Papers of Mercedes Page.5 | ![]() |
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ただ待っているだけの時間は果てしなく長い。ずいぶん経った気がしていても、まだようやく人々が起き出す頃に過ぎなかった。 公に明かされることのない儀式の為に、日常のあれこれを投げ出すことの出来ない国王夫妻は、振り切るようにしてこの場を去っていった。 残されたのは、自身の一部が欠けてしまったかのような喪失感を抱えた三人 だった。永い歳月、ずっと四人一緒にやってきて、そこから一人が欠けた。一人 オートザムへ武者修行に出た時でさえ、こんな寂寥感は感じなかった。双子の 片割れであるシルフィなどはなおさらだろう。そこから見える訳でもないのに、蒼い≪護り石≫のペンダントをぎゅっと握り締めたまま、塑像のように窓辺で立ち尽くしていた。 陽が中天に上がり、やがて傾き、間もなく夜の闇が訪れる頃になっても、何の 気配もなかった。考えてみれば、何を以って≪柱の試練≫が無事に終わったと 判断するのかなど、三人の誰も知りはしないのだ。 身を以ってそれを知るのはきっと、譲位をなさる当代の≪柱≫だけだろう。 燭台に灯をともすべきか、それよりも憔悴の色を隠せないシルフィを部屋で 休ませるべきかと考えのまとまらない俺の遥か頭上に、きらきらと小さなひかりが瞬き始めた。 その薄暗い部屋に突然現れたひかりに三人の目線が集まる。得体の知れない現象であるにも関わらず、不思議と恐怖や危険は感じなかった。降り場をなくして羽ばたき続ける小鳥を迎えるように、気づくと俺はそのひかりに両手をさしのべていた。音もなく降りそそぐ頼りなげなひかりが消えた時、掌に冷たさと、ほんの 僅かな重さを感じた。掲げていた手を下ろした俺の視線がその手の中のものに 釘付けになるのと、サプリームが、「蒼い≪護り石≫…?」とつぶやくのと、 「いやぁぁぁっっ!!」というシルフィの悲鳴が上がったはほぼ同時だった。 いつの間に二人がペンダントを交換したのだろうと思ったものの、別れ際に グロリアがまさぐっていたのは間違いなく紅い≪護り石≫のペンダントだった。 そして僅かに右に流れる台座の形は、間違いなくグロリアが身につけていた ものだ。シルフィのものはそれと対称に僅かに左に流れているのだから。そして いま、シルフィが身につけている≪護り石≫は、グロリアの瞳のような紅に 変わっていた。
『まぁるくて、ちっちゃな真昼の太陽を戴く まっ白でふわふわした不思議な生き物に なんだかおかしなところへ連れてこられたけど 私、帰れなくなったみたい………ごめんなさい』
心細げなグロリアの声が聞こえた気がしてハッと顔を上げたのは、俺だけでは なかった。 「『帰れない』って、どういうこと…?」 「…グロリアが、消えてく…」 茫然としたシルフィのつぶやきとともに、俺の掌の上で風化して砕けていくようにグロリアのペンダントが形を失いはじめた。 「待ってっ!置いてかないで、グロリアーっ!」 風が吹いている訳でもない室内で、何処へともなく攫われていくかけらをかき 集めようとするシルフィの両の手をすり抜けて、繊細な鎖と台座は跡形もなく 消えた。 白くて華奢な手が押さえ込んだ俺の掌に残ったのは、哀しいほどに蒼い、いま とめどなく涙を流し続けているシルフィの瞳と同じ色に変わった≪紅い護り石≫ だけだった。 グロリアの≪護り石≫を握り締め、その場に崩れるように膝を着いたシルフィは 「どうして?」と繰り返しつぶやいていた。すぐそばで立ち尽くすサプリームも、 シルフィをただ抱き寄せてやることぐらいしか出来ない俺も、同じ言葉を誰かに ぶつけたかった。
どのくらいそのままでいただろうか。窓からさしこむ冷たく頼りなげな月明かりだけの場所に、ランタンを手に近づく者がいた。 「まだこちらにいらしたのですね、シルフィ姫」 揺らめく灯りに照らされた人は、当代の≪柱≫に仕えている神官のミシュラン だった。 「ミシュランさま…」 「シルフィ姫ならばすでにお気づきでしょうが…。クレールさまよりのお言葉を 預かっております」 「いや…。聞きたくない。やめて下さい…」 むずがる子供のようにシルフィは何度も首を横に振った。 「『グロリアは継承を成しえず消えた』と…」 ぷつりと糸を裁ち切られたあやつり人形のように腕の中にくずおれたシルフィの手から、グロリアの≪護り石≫がこぼれ落ちる。俺がシルフィの身体をしっかりと抱え直す間に、サプリームは自分の足元に転がってきた≪蒼い石≫をそっと拾い上げていた。 「どういう意味なのですか!?ミシュランさま」 「言葉通りだ。グロリア姫は試練を乗り越えることが出来なかった。試練を 越えられぬ者は消える運命(さだめ)にあると、聞かなかったかね?」 「それは…。しかし」 聞かされていたということは実例があったということだろうが、誰しも自分の周りでそのようなことが起ころうなどとは考えないものだ。 掌にグロリアの≪護り石≫を載せたままむせび泣くサプリームに、ミシュランが歩み寄る。 「グロリア姫の瞳そのままの、透き通るような紅い色をしていたというのに…。 シルフィ姫の≪護り石≫と入れ替えたような色変わりだな」 「いま、シルフィの≪護り石≫が紅くなっています…」 「心迷われたか…。迷いがあっては、≪柱の試練≫は到底越えられぬ。この ままではシルフィ姫も二の舞を演じることとなられるだろう」 「それは、シルフィが≪柱の試練≫に臨むってことですか…?」 ごくりとひとつ息を呑んで、そう尋ねたサプリームに、ミシュランは表情ひとつ 変えずに答えた。 「グロリア姫亡きいま、他に誰がいる?姫君たちの成年式も待てなかった事情は解っていると思うが」 当代の≪柱≫のクレールさまの体調がいよいよ限界に近いから、継承を急いだのだ。万が一、継承前に身罷られるような事態になれば、セフィーロ国内の混乱は避けられない。 その時俺は、いま腕の中にいる女性(ひと)に永遠に手が届かなくなってしまったことを思い知った。 ミシュランと別れ、サプリームを伴いシルフィの部屋までを静かに歩く。これが 最初で最後になるであろうその愛しい重みを腕と心にしっかりと刻み付けながら。
シルフィの部屋では、やはり泣き腫らした眼をした王妃が、たった一人残った、 けれども間もなく否応なしに手放さなければならない運命にある娘を待っていた。 意識を失ったままのシルフィをそっとベッドに横たえ、最後に亜麻色の髪を撫で ようとした俺の手を王妃が阻んだ。 「もう、あなたのそばにはいられない子だから…」 届かなかった手をぐっと握り締め、王妃に一礼をしてその部屋を出ようとした俺の前にサプリームが立ち塞がった。 「どいてくれ、サプリーム」 「シルフィが目を覚ましたらどこにあるか気にすると思うけど、それまではメルが持っててあげて」 サプリームが俺の目の前に差し出したのは、蒼く色変わりしたグロリアの ≪護り石≫だった。 「それは王妃さまにお渡しすべきだろう。そこを通してくれ」 「冷たいよ、メル…。ほんとに少しも気づかなかったの?ただの一度も…?」 何故ここでサプリームに喧嘩を吹っかけられねばならないのか、全く以って 解らなかった。 「ねぇ、どうしてグロリアの≪護り石≫が、シルフィのところじゃなくメルのところに還ってきたと思うの?!最期ぐらい…、心が消えちゃう前に一度ぐらい、メルに 抱いてほしかったからに決まってるじゃない!」 髪と瞳の色と、正反対の性格以外は本当によく似た双子の姉妹…。好みの 果物、好みの音曲、好みの服の色、周囲もあきれるほどにお揃いの二人は、想いを寄せた相手も同じ。それでも一人しかいないその相手――そんなことに気づきもしなかった俺は、無情にも、その姉姫の目の前で亜麻色の髪に蒼い瞳の妹姫を選んでしまっていた。 いつも控え目で聞き役に回ることの多かったグロリアと、自分の気持ちを素直に表すシルフィ。妹の恋心を知ってしまったグロリアが、自分の想いを閉じ込めて しまうことは想像に難くない。 意図してそうしたつもりはなくとも、自分がどれだけグロリアを傷つけていたのかを、彼女に詫びることすら叶わない今になって思い知らされてしまった。 サプリームが捧げ持つグロリアの≪蒼い護り石≫…どうして二人の≪護り石≫がまるで入れ替えたように色変わりしてしまったのか、本当のところは誰にも 解らない。グロリアが最期にシルフィであれたならと願ったからだろうか。それならシルフィの石が紅くなったことはどう考えればいいのか、見当もつかなかった。 それでも、半身にも等しい姉を喪い、失意の底に眠るその人以外を抱きしめることなど出来なかった。 「すまない…」 知らずに傷つけたことを詫びているのか、最期の願いさえ受け入れてやれない己の狭量を詫びているのか、言った俺自身にもよく解らなかった。 サプリームの手を押し戻し、俺はシルフィの部屋を後にした。
翌日の午後になって、グロリア姫が病で急逝したと、魔導師たちの『声』で セフィーロの国中に知らされた。もしかしたら、これまでに試練を乗り越えられ なかった≪世継ぎ≫たちも、こんな形で人目につかない歴史の裏側へと 押しやられていったのだろうか。成年式も済ませぬ≪世継ぎ≫の姉姫の訃報に 国中が悲しみ、当代の≪柱≫の芳しくない体調と相まって、さらなる民の不安を 招いていた。魔物退治に東奔西走する親衛隊を見かね、姉の喪に服する間もなくシルフィは≪柱の試練≫に臨みクレールさまよりその御位(みくらい)を引き継いだ。
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ミシュラン…柱に仕える神官。タイヤメーカーのミシュランより クレール…当代の≪柱≫。インテルミラノ社のアルミホイールより 魔導師の『声』…一種のテレパシーのようなもの。届く距離と正確さは力量に比例する。
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