Slipping Through My Fingers
………とさっ………
『おやおや、静かになったと思ったら…。ヒカル、寝ちゃいました?』
僅かにベッドをリクライニングさせて、光が淹れてくれた地球の紅茶の香りだけを楽しんでいた
イーグルがくすりと笑った。その光にうたた寝の枕代わりに脚を奪われた黒髪の魔法剣士は、
穏やかに少女のあどけなさの残る眠り顔を見つめていた。
「ああ。昨日までガクネンマツシケンだったから、ずっと遅くまで勉強していたんだろう」
『チキュウの学生ってシケンばかりやってるんですね。この間はチュウカンシケンって言って
ませんでしたか?』
ため息混じりのイーグルの言葉に、ランティスが苦笑する。
「お前はその合間に眠ってるから、余計早く感じるんだろう。他にも実力てすととかモギシケンとか、
いろいろあるらしい」
『ブカツやって、家でもケンドウやって、そんなに忙しくしていても、こうしてセフィーロに来てくれるん
ですね、ヒカルは』
「最近は『イーグル起きてる?』が挨拶がわりになってる。お前のことが気がかりなんだろう」
淡々と言ってるようで、微妙なニュアンスを含んだ響きをイーグルは敏感に感じ取る。
『なにも広間を挟んで正反対の位置にあるあなたの部屋に聞きに行かなくても、直接ここへ
来てくれれば解るんですけどねぇ』
「寝込みを襲ったら悪いと思ってるんじゃないか」
『かわいいお嬢さんになら襲われても一向に構わな…い……。冗談ですよ。そこで険悪なオーラ
醸し出すの止めてください』
「お前が言うと、冗談に聞こえん」
『いやぁ、ヒカルにプロポーズしたあなたを差し置いて、添い寝してほしいなんてことは言いませんよ。
せっかくヒカルに拾って貰った生命を、粗末には出来ませんから』
眼を閉じていたランティスが、微かに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「………」
『烈火のごとくに怒ったプリメーラ嬢が城中に言い触らしたみたいですね。熟睡してる僕のところに
まで来て、耳元で喚き倒して起こしたぐらいですし…』
クククと笑ってる風情のイーグルに、ランティスは雷のひとつも落としてやりたいのを歯を食いしばって
堪えていた。
「…ここまで言いに来たのか…」
『先に言っておきますけど、オートザムは一妻多夫を認めてません。あ、逆もダメです』
「チキュウの一部では一夫多妻が認められているらしいが、一妻多夫となるとかなり限定的だ。
ヒカルの住む国ではどちらも認めてない」
『よく知ってますね』
「王子が言っていた」
『…じゃメガネのお嬢さんの情報ですね、きっと。セフィーロはどうなんです?』
「そもそもケッコンという制度がない。制度はないが、だからと言ってそんなに何人もで暮らす
という話も聞かんな」
『あ、やっぱり…』
「導師や王子もみんな大好きだから、ずっといっしょにいたいんだそうだ」
つきあいの長いイーグルだからこそ、ランティスの少し不貞腐れてるような物言いに気づいた。
『……どうもおかしいですね。すみません。正確ないきさつを話してもらえませんか?なんだって
ヒカルは、僕とランティスと結婚するなんて言い出したんです?』
「――今この状況で言えるか……」
ランティスの膝枕で当事者が眠っているというのに、どうしてそんな話が出来るだろう。
『なにも声に出して話せなんて言ってないでしょう?多分僕のほうがあなたより経験豊富だと
思いますよ。こと、恋愛に関しては』
そんなイーグルの言葉には答えず、光を起こさないようにそっとマントを外すと、ランティスは
きゅっと眉根を寄せたまま寝入っている彼女の身体をふわりと被った。
『…危ないかも知れないな…』
光の眠りを妨げないよう、ランティスはイーグルにだけ聞こえる心の声で話しかけるが、
イーグルにはまだその話し分けが出来ていなかった。
『何が危ないんです?』
『…声が大きい。ヒカルが寝言を口にしても、聞かなかったことにしろよ』
『夢うつつに恋しい誰かの名前を呼ぶかもしれませんしね』
やけに暢気なことを言う親友に、ランティスが僅かに顔を曇らせた。
『そんなことならまだいい…』
『…?』
怪訝に思ったものの、すぐには答えそうにない雰囲気に、イーグルも頭を切り替えた。
『僕がしゃべるとうるさいんでしょう?黙って聞いてますから、いつもの、お願いします』
ようやく意識だけは起き出したイーグルが退屈しないように、ランティスは時間が許す限り
オートザムやその他の近況などを話して聞かせていた。三日前にジェオたちがセフィーロに
来ていたものの、イーグルがぴくりとも起きなかったので、まずはその辺りの話から始めた。
『…母さん、無理言ってるんですね。仮にもファーストレディなんだから、見舞いに来たいって
ごねてどうするんだか』
『一人息子が遠い地で療養してるとなれば、気になるのは当たり前だろう』
『ははっ、ランティスは甘いですね。なにしろオートザムの者にとっては、セフィーロはおとぎの
国ですから、物見遊山したいだけですよ』
「……ちが…う………」
『え――?』
『イーグル!』
叱責の色をのせたランティスの心の声に、イーグルがはっと沈黙を思い出す。
「…違うんだ…」
オアシスを探して彷徨い砂漠に行き倒れた旅人が、僅かな水を求めて最後の力をふりしぼる
ように、光が弱々しく手を延ばす。その手の先に、ランティスがそっと大きな左手をさしのべた。
「…助けに来たのに…。こんなの……違う…」
『明らかにうなされているのに、どうして起こしてやらないんですか!?』とイーグルが沈黙の
うちに抗議しようとする気配を感じ取って、ランティスが先に釘を刺した。
『いまは、起こすな』
夢の中でかの人に剣を突き立てる以外の選択肢を求めている光の左手が、掴まえたランティスの
指にぎゅうっと縋りついた。触れられたところから、たったいま光が感じている心の痛みが、無数の
針のようにランティスの指先にも突き刺さる。
『…くっ…』
あまりの痛みにごく小さく呻いたものの、ランティスはその手を握り返すでもなく、振り払うでもなく、
光にされるがままに委ねていた。
「誰か…たすけ…て」
それは、本当は≪あの時≫に言いたかった言葉。姫を救う為だけに戦い続けてきたはずなのに、
その姫の命を絶つことでしかそれが叶わないのだと知らされた時。他に何か手立てがないのかと、
考える暇(いとま)さえ与えられなかった光たちこそが、最後の決断を迫られた時に言いたかった言葉。
けれどもそこにさしのべられる助けはなく、他に選べる手段もなく、足許まで迫ったセフィーロの崩壊と
消滅を盾に追い詰められて、三人の少女は熔けだしそうなほどに熱せられた咎人の烙印にその身を
投げ出すしかなかった。他人の目には見えない、自分の手でも触れられないその焼け爛れた傷が、
いまでも癒えることなく、彼女たちの心の隙を突いては血を流していた。
ただその手だけが最後の救いであるかのように、両手でランティスの左手をぎゅっと握りしめたまま、
光はまたつかの間の深い眠りに落ちていった。血まみれになっていないのがいっそ不思議なぐらいの
左手の痛みが引いて、ようやく光が落ち着いたことにランティスが深く静かに息を吐き出す。今すぐに
でも問い詰めたいと思っているイーグルに気づいてはいたが、ランティスは無言のまま拒絶の意志を
示していた。
窓から射し込む陽が夕暮れの色に変わる頃、光がイーグルに贈ったオルゴール時計から Slipping
Through My Fingers のメロディーが奏でられ、柔らかな音色に誘われて光がゆっくりと目を覚ました。
「うにゃ…?」
枕というには小さく、ぬいぐるみというには硬い物を抱え込んで寝ていたことに、光の口から疑問の
声が零れる。
「――そろそろ起きないと、帰る時間だろう?」
まだ少しぼんやりとした寝起きの耳に、低くて優しい声が届く。その声が聞こえたほうへ、光がとろんと
した瞳を向けた。
「ランティス…?」
どうしてこんな角度で、しかもいつもより近い距離でランティスの顔が見えているのだろうと、嫌な夢を
見たあと特有の寝覚めの悪い頭がまともに働かない。まだ光がぎゅっと握りしめたままだった左手を
少しだけ動かして、ランティスが微笑った。
「起きてるか?ヒカル」
ライナスの毛布よろしくランティスの左手を抱え込んでいた事と、枕にしていたものに気づいて、光は
一気に目が覚めた。
「わぁっ…。私ってば…、ごめんなさいっ。重かったでしょ?」
「いや」
「えっと…、私、変なこと言ったりしなかった…?」
椅子にちゃんと座りなおして髪を気にしつつ、俯いた光がかぼそい声で尋ねた。いつもよりも小さく
見える光の姿を痛々しげに見つめながら、ランティスが答えた。
「俺もうたた寝をしたから気づかなかったな」
『……僕も眠ってたんで、何も…。何です?夢の中で僕らの悪口でも言ってたんですか?』
「そっ、そんなこと言わないよ!」
茶化してみせるイーグルに反論しつつも、あからさまに光がホッとしているのが手に取るように二人にも
伝わってきた。
「お見舞いに来ておいて寝ちゃってゴメンね、イーグル。ランティスも膝枕してくれてありがと。今日は
そろそろ帰るよ」
慌てて立ち上がった光に合わせて、マントを着けなおしたランティスもゆっくりと立ち上がる。
「あのっ、私、ひとりで行けるよ?ランティスはもう少しここに…」
『いえ、僕はもうひと眠りしたいんで、そいつも連れてってください。邪魔になりますから』
「邪魔って…。じゃ、おやすみなさい」
苦笑いしながら暇を告げた光を伴い、ランティスもイーグルの部屋をあとにした。
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