6月27日 vol.1             

 

 ――東京・獅堂家

  光の部屋の時計の針は朝の5時半を指している。やはりこの家にいるときは、自然に朝練の時間に目が覚めて

しまうなと思いつつ、起きたからには今日も道場へ行こうと光は身支度を始める。当分は道場に足を踏み入れることも

なくなってしまうのだから。

 真っ白な道着に身を包み道場に入ると、中央あたりで竹刀を置き、正座して瞑目する。あの頃も――エメロード姫の

願いを叶えてそのまま東京へ帰されてしまったあの頃も、こうしてよく道場で瞑想したことを思い出す。

 「あの頃、兄様たちにずいぶん心配かけちゃったな…」

 「この三日間、毎朝そうしていたのかい?」

 声をかけられた光はハッと目を開ける。道場の入り口を見遣ると、光と同じように白い道着を身につけた覚が立っていた。

 「覚兄様!どうして?もう起きて大丈夫なの?」

 昨夜も三十八度近く熱があったし、稽古もお休みにしているのに、何故起きだしてきたりしたのだろうと光は困惑した。

光の前までゆっくりと歩いてくると、覚は向かい合わせに正座する。

 「――いつかのように、迷いがあるわけではないね?」

 「はい。…あの時は、心配かけてごめんなさい」

 「弟妹に心を配るのは兄として当然の役目だよ。光が気にすることはない」

 「覚兄様…」

 「あれは、あちらの世界のことで悩んでいたんだろう?光はそれを自分の力で乗り越えて、そしてその上であちらで

生きていく道を選んだ」

 覚の言葉に、光はこくりと頷く。

 「高校に上がる前には、もう決心していたね?」

 「え?どうして…」

 「中高一貫の中学校にいて、学校でトラブルがあったわけでもないのに、公立に外部進学したいなんてあまり考えない

だろう?」

 「…二十歳になるまでは、きっと許してもらえないと思ってた。でも大学を出たら、すぐにも向こうに行きたかったから、

就職しないんじゃ学費返せないなと思って…。結局、内申書すごく落とされちゃうから、公立受けられなかったけど」

 「それであんなに無理してまで国立に行って、アルバイトもがんばってたんだね」

 ねぎらうような覚に、光はふるふると首を横に振る。

 「だけど、全然足りてない。わがままばかり言ってるの判ってる。でももうこれ以上、ランティスと離れて暮らすのは

いやだから…。ごめんなさい、兄様」

 光が苦悩を抱えていたあの頃のように、覚は大きな手で光の髪をくしゃりと撫でた。

 「どうして謝る?光が幸せになれるなら、それでいいんだよ。――これを読んでごらん」

 覚は道着の懐から白い封筒を取り出すと、光に手渡した。

 「手紙?」

 糊付けもされていない封筒を開けて、光は一枚きりの便箋を広げる。手紙というほどもないほんの数行の走り書きに、

光の目からはぽろぽろと涙が零れた。

 「父様……っ!」

 二十四日に嫁入り前の挨拶に帰ることは父にも伝わっていたはずなのに、三日経っても父が姿を現さないのは、

本当は怒っているからだと光は思っていた。父が認めてくれたのは、永い間、家長の留守を預かってきた長兄・覚の

意向を尊重しただけだったのかもしれないとさえ思っていた。

 『獅堂の家がどんなに居心地よかったとしても、お前が帰ってこられる場所だと思うな。これからの光が帰る場所は、

光自身の手で築け』

 実にそっけない、一見突き放すような言葉で、それでも遠くに嫁ぐ娘の背中を後押してくれる父の気持ちが光には

嬉しかった。幼い自分が打ち負かしてしまったために、全国剣道修行に出て行ってしまった父。あまりに幼かったので

その事実を忘れていた頃は、何故うちには父がいないのか、母がいないのかと、ことあるごとに泣いて兄達を困らせた。

ふとした偶然でその理由を知ってからは、父に嫌われているのかもしれないと思ったこともあった。けれどもそれは光の

思い過ごしにすぎなかったのだ。

 「目の前で光に嫁入り前の挨拶をされては、きっと手放せなくなると思われたんだろう。判ってあげられるね?光」

 諭すような覚の言葉に、光はあふれる涙を拭いもせずにこくこくと頷いている。バタバタと廊下を走る音がしたかと

思うと、パジャマ姿の優と翔が道場に駆け込んできた。

 「兄様たち、パジャマのままで…」

 泣き顔のまま戸惑っている光を見て、翔が長兄に食ってかかった。

 「覚兄さん!なに、光泣かせてんだよっ」

 「君達はなんて格好で道場に来るんだい?教える側にも立つんだから、礼儀作法は弁えなくてはいけないよ」

 「兄さん、それよりなんで光が泣いてるの?!」

 穏やかに答える覚が癇に障ったのか、優も兄を問い詰めにかかる。

 「だから着替えてからお行きなさいと申しましたのに」

 道場の入り口では、右手を頬に当てた母が溜息をついている。

 「か、母様まで揃って…、どうして?」

 母も道場へと入り、光と正対するように覚の隣に正座した。

 「光さんのお部屋に行ったらいらっしゃらなかったから、優さん達の様子でも見に行ってらっしゃるのかと思いましたの。

でも、そこにもおられなかったから…。そうしたらこの方達が、『光が帰っちゃったの!?』って騒ぎ出されてしまって…」

 「仕方がない、君達もそこに座りなさい。光、挨拶があるんだろう?いまのうちに済ませなさい」

 「え?いま??」

 挨拶をするなら家を離れる直前に、と光は思っていたが、こんな風にぐずぐずの泣き顔になっては外も歩けなくなると

覚は気遣ってくれているのだろう。しばらく俯いたのち、光はニ、三度深呼吸をして息を整え、母、覚、優、翔の顔を

記憶に焼きつけるように、順番に見て言葉を紡ぎだす。

 「母様…。お料理とかお裁縫とか、まだ全然ダメなんだけど、母様の娘として恥ずかしくないように、これから向こうで

がんばります。あんまり娘らしいこと出来なくてごめんなさい」

 おっとりとした、けれども少し淋しげな笑顔で母が答える。

 「私のほうこそ、あまり母親らしいことはして差し上げられませんでしたね。どこへ行っても、光さんは私の自慢の娘

ですよ」

 「覚兄様…。ずっと親代わりとして面倒見てくれてありがとう。兄様が見守ってくれてたから、いつでも心強かったよ」

 「小さな光がいたから、しっかりしなくてはと長兄としての自覚ができたよ。ありがとう」

 覚のまなざしはいつもとかわらず、穏やかに光を見つめている。

 「優兄様…。父様や母様がいないときでも、兄様がいっぱい構ってくれたから、あんまり淋しくなかったよ」

 涙がこぼれそうになるのを、そっぽを向いて誤魔化しながら、少しぶっきらぼうに優が答える。

 「俺も光を構ってたから、淋しく思わずに済んだんだ。お互いさまだよ」

 「翔兄様…。私、悪の大魔王に攫われるんでも、騙されてるんでもないからね」

 どれだけ感動的なことを言ってくれるのかと思っていた翔は、光の言葉にがっくりと肩を落とした。

 「いや、確かに、俺、そんなこと言ったけど、他に言うことはないの?光…」

 「えへ。ちょっと言ってみただけ。翔兄様も私を心配してくれてたんだものね。私は自分自身で選んだ人と、これから

一緒に生きていきます。翔兄様も早くガールフレンドぐらい見つけてね」

 「一言余計だっ!あいつにいじめられたら、いつでも帰ってこいよ」

 「帰らないよ」

 「光の強情っぱり!」

 「知らなかったの?翔兄様」

 「…知ってたけどなっ」

 しばらくはすることもない他愛無い兄妹の言い合いをかみしめながら、光はまた覚に視線を戻した。

 「覚兄様。父様への伝言お願いしてもいい?」

 「なんて伝えるんだい?」

 「『帰る場所は、ちゃんと二人で築いていきます』って、それだけ」

 「判ったよ。必ず伝えておく」

 もう一度母、覚、優、翔を順番に見て口を開きかけたものの、言葉より先に涙があふれてきてしまう。

 「二十二年…、もうちょっとで二十三年かな。本当にお世話になりました。獅堂の家に生まれて、みんなと家族で

いられてすごく幸せでした。私が選んだ人をちゃんと見て欲しかったんだけど、どうしても東京には連れてこられなくて…。

でも、本当に私のこと、大切にしてくれる人だから、私、幸せになれるから……。この家を出てお嫁に行きます」

 手をついて深々と頭を下げる光の肩が、しゃくりあげるたびに揺れている。そんな娘の姿に母がいざり寄り、そっと

肩を抱き寄せた。

 「ほらほら光さん、そんなに泣いてらしては、目許が腫れて外へも出られませんわよ。いくらなんでも今日には

帰らなくてはいけないでしょう?」

 母に抱きつきながら、光は言葉に出来ないままこくんと頷いた。

 「あら、もういい時間ですわね。光さんも朝御飯の用意を手伝ってくださいな。嫁入り前最後の修行ですよ」

 「はい、母様」

 母とともに、竹刀を手にして立ち上がると、光は道着の袖でぐっと涙を拭って兄達に笑顔を向けた。

 「朝御飯の用意してくるね」

 「食えるもの作れんのか?!光」

 「翔兄様、ひどいっ!」

 「そりゃあ俺達、光の手料理なんて、ただのいっちども、食べたことないもの。な、翔」

 口の悪い翔に、優までが同調している。

 「地球の食材でなら、学校の調理実習やってるもん!」

 「そ、そのレベルなのか、光…」

 「うわぁ、俺、ちょっと大魔王に同情するかも…」

 さっきまでの泣き顔はどこへやら、完全におかんむりの光が二人の兄に言い放つ。

 「じゃ、母様と、覚兄様と私の分しか用意しないから!優兄様と翔兄様の分は知らないっ。母様、行こっ!」

 「「ごめんっ!光っ!!待ってっっ」」

 「優、翔。こちらへ来なさい」

 道場を後にした光を追いかけようとした優と翔を、覚が静かに呼び止める。長兄に呼ばれ、大人しく戻ってきた

弟二人の額に覚が手を当てた。

 「二人とも微熱以下だね。君達にはそんな格好で道場に入った罰として、床の雑巾がけをしてもらいます」

 「でぇぇ!?俺達病み上がりっつか、まだ病人だって!覚兄さんっ」

 「微熱程度なら、普段は練習を休んだりしないだろう?それに身体を動かして、適度におなかがすいていれば、

何でも美味しく食べられるものだよ」

 にっこりと笑いながら、受け取りようによっては案外酷いことを言っている覚は、もしかするとものすごい天然なのかも

しれないと、弟達は思わず顔を見合わせていた。

 

 

 

 「あー、腹減った…」

 「ここんとこ道場休みにしてて毎日掃除してないぶん、ホコリ溜まってたしな。あ゛ー、また熱が上がりそう」

 「綺麗になって気分もすっきりしただろう?」

 覚も手伝っての掃除を終えた三兄弟が口々にそう言いながら、居間へとやってきた。何を思ったのか翔は鼻を

クンクンいわせている。

 「何やってんだ?翔」

 「いや、特に焦げた臭いとかはないなって…。でもまだ微妙に鼻づまりなんだよな、俺」

 「お前、ホントに光に飯抜きにされるぞ?」

 台所から顔を覗かせた光が、兄達ににっこりと笑った。

 「朝御飯の用意できたから、座っててね」

 炊きたての御飯をよそったお茶碗や、味噌汁の入ったお碗を載せたお盆を捧げ持って、光が静々と歩いてくるが、

微妙にお盆が震えている。

 「光、お前、手許震えてないか?」

 「い、いま、声かけないでっ!お盆で運ぶのって緊張するんだからっ」

 「おいおい、喫茶店とかファミレスでバイトしといたほうがよかったんじゃないか?」

 「そんなこといまさら言わないで、優兄様」

 古風な日本家屋の獅堂家は和室に座卓での食事なので、光にはお盆を持ったまま跪くという難関が待ち構えていた。

 「味噌汁零すのだけは勘弁だからな」

 翔は少々引き気味で、事あらば逃げられる体勢をとっていたが、お盆の無事着陸にホッと一息ついている。光は

ご飯茶碗や味噌汁の碗をそれぞれの位置に配って、また台所へと戻った。光に聞こえないように、小さな声で優が翔に

耳打ちする。

 「…ご飯を炊くのは炊飯器が勝手にやるし、味噌汁で失敗もまぁないだろ…」

 「母さんもいるんだもんな」

 質素を旨とする獅堂家では、朝のメニューは決まっていて、ご飯に味噌汁、玉子焼きに焼き魚(干物の場合も有)、

それに香の物が添えられる。道場ではああ言ったものの、このラインナップで失敗するようなものはまずないだろうと、

優は思っていた。

 「お待たせしました」

 玉子焼きと焼き魚、香の物を運び終えて、母と光も座卓につく。優と翔はといえば、皿の上の黄色い物体を凝視していた。

 「珍しいね。今日は巻いてる玉子焼きじゃないんだ。でも…スクランブルエッグ…っていうのか?コレ」

 「いや、スクランブルはもっとふわっと半熟っぽさがないか?」

 翔と優の言葉に、母がころころと笑う。

 「光さんがちょっと巻き損ねてしまわれただけですよ。味付けは大丈夫」

 「さっきちゃんと味見はしたから」

 ちょっとばつの悪そうな光に微笑みながら、覚がまず、「いただきます」と箸を伸ばした。それに釣られて、優と翔も

覚悟を決めて(?)「「いただきまーす!」」と箸を伸ばした。

 「いつもと味付けが違うね」

 「あれ、甘くない…。スクランブルなら甘くないけど、元が玉子焼きならおかしくない?光、砂糖忘れた??」

 「ランティスは甘いの好きじゃないんだ」

 「あ〜の〜な〜っ!いま、この場にいないヤツの好みを基準に作んなっ!」

 「私の修行なんだから、翔兄様は黙ってて」

 「へいへい。味噌汁は…、ま、こんなもんか」

 いつも綺麗に焼き魚の身をはがす覚が、今日は微妙に苦戦していた。

 「光。魚はもう少し火を中まで通したほうが良かったかもしれないね。少し身離れがよくないようだよ」

 「焼きなおしてくるっ!」

 「いや、それほどでもないけどね」

 香の物を摘んだ優が、光の目の前で蝶々のごとき沢庵を振ってみせた。

 「切れてなぁーい!」

 まるでどこかのひげそり用かみそりのCMみたいな台詞回しで、妹に文句をつけている。

 「ご、ごめんなさい」

 「優さん、お行儀がよろしくありませんよ」

 「はいっ。でも母さん、ホントにこれで嫁にやっていいの?」

 「そうはいっても、明々後日がお式ですからねぇ。ご招待の方々もおられるのだから、いまさら言っても仕方がありませんよ。

あちらへ行ったらがんばりなさいね、光さん」

 「…はぁい」

 頭が痛いという風な光を見ながら、自分の彼女にするなら料理上手なコがいいなと心ひそかに思う優と翔だった。

  

 

 

 

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