おさえた首元

 

 ランティスが結界魔法を応用してあちこちに仕掛けたショートカットはほとんど

二人だけの専用通路になっている。その一つを辿り、光はセフィーロ城の離れ小島と

揶揄されるランティスの執務室へと飛んできた。

 「こんにちは、ランティス。お邪魔してもいい?」

 ふわりとした髪を揺らして訊ねる光にランティスが否と言う筈もない。

 「一段落ついたところだ。何か飲み物でも…」

 書類から顔を上げたランティスの目が傍らに立った光の一点に縫いつけられる。

目と目を合わせるにはややズレた視線に気づき、光が慌てて首元をおさえた。大きく

ひと呼吸置いてから、ランティスが静かに訊ねた。

 「…それを隠すために髪をおろしていたのか…」

 「え? うん…。でもバレバレだよね」

 「…誰がそんなことをした…」

 低い声がこころなしかいつもより低くなっている。誰と問われて困惑した光が言い

よどむ。

 「誰って…? んー……モスキートン伯爵…! その連れのダニーかもしれない…」

 家で見た昔のビデオテープに紛れ込んでいた殺虫剤のCMがふと頭に浮かんで、光は

それを口に出していた。

 「伯爵…」

 伯爵というのは確か地球で貴い血筋の者に与えられる称号だ。日本にその制度が既に

ないことを知っては居るが、一部国外にはまだ現存していた筈だ。光がそういう異人と

知り合わないなんて保証はどこにもない。

 「何人かで居ても必ず私のところに来ちゃうんだよね。どうしてなんだろう…。

私ってそんなに美味しいのかな?」

 頬をかりかりと掻きながら光は小さく笑ったが、ランティスは何をどう言えばいい

ものかと、彼らしくもなく混乱していた。

 つややかに紅いくちびるは甘い物嫌いで通っているランティスにさえ別格と思わせる

ものがある。勿論くちびるだけに限らず光はどこもかしこも甘くみずみずしい果実を

ランティスに想起させる。

 逸脱しかけた思考の糸を手繰り直してみても、今の言葉はランティス以外の誰かが

光を味わっているという意味にしか解釈しようがなかった。そしてそうされたことに

幾許かの不満は見て取れるものの、嫌悪感を抱いている様子にはとても見えない。

 あのイーグルさえ袖にして(光に何処までの認識があったかランティスにさえ測り難いが)ただ一人の相手

として選んでくれたのだと思っていたのに、他に心通わす男が現れたということなの

だろうかと思い巡らす。あの冬の出来事を除けば、地球で光の身に起こることなど、

ランティスには窺い知る由もないのだから。

 真に光の幸せを願うならその望むままに応じればいいことは判りきっているのに、

それを素直に肯けない自分が確かにそこにいた。

 いつもより口数少ない男を光は不安げに見上げた。

 「…やっぱり格好悪いから連れ歩きたくないのか…?」

 帰京の予定時間はともかく、明るいうちなら余程仕事が立て込んでいるのでなければ

たいてい遠出に誘ってくれるのに、その言葉が出ないことに不安になった光が訊ねた。

 寝取られることが格好いいことだとはとても思えないが、もし光がその伯爵とやらと

ランティスをまだ選びかねているというのなら、くだらない意地を張ってここで手を

引く訳にはいかない。

 「・・・まだ俺はその伯爵から光を取り戻すことが出来るのか・・・?」

 くいと顎に手をかけて、真っ直ぐなまなざしでそう訊ねるランティスに、訝しげに

まばたきを繰り返した。

 「取り戻すもなにも…、私の血を吸ったらどっかに行っちゃったよ? 寝てる間

だったから仕留められなかったんだ」

 万物に優しい光ではあるが、まだ閃光がいた頃にフィラリアを媒介するかもしれない

害虫ということで、予防薬投与をしていても見かけたら容赦なくやっつける癖が身に

染み付いていた。

 「ヒカルの血を吸っただと…?」

 ドラキュラ伯爵なんてものは(そういやこいつも伯爵か・怒)文献に目を通しはしたものの、

作り話だとばかり思っていたのに、よもやそんな輩(やから)が他にもいて、あろうことか

光に手出しをしにくるなんて誰が思うだろう。

 「うん。しっかり食われちゃったんだ…うっわー、なんかまた痒くなってきた〜っ!

ううっ」

 思わず手が赤くなった部位にいったものの、これ以上掻いたらさらに酷くなること

請け合いだ。だが痒みは時に痛みより耐えることが難しく、光はもぞもぞと掻かない

ように堪(こら)えていた。そんな姿を見たことのないランティスにはただならぬ異変が

起きたようにしか思えなかった。そんな光をランティスはぎゅっと抱きしめる。

 「うにゃあ」

 そういうムードでもなかったところにいきなり抱きしめられた光が素っ頓狂な声を

たてた。

 「ヒカル…! たとえお前が吸血鬼に変わっても俺は構わない。そんな姿で家族の

許へ帰れないというなら、そのままセフィーロにとどまればいい。元の姿に戻る手段を

何としても俺が探してやる」

 いつぞやのハロウィンにもそんなことを言われたっけなぁと思いつつ、こんなに

真剣なまなざしで告げるからには、何かのジョークという訳でもないらしい。

 「吸血鬼って…なんで私が吸血鬼になるんだ??」

 いったいどこでそんな話になったんだろうかと、強く縛(いまし)める腕をとんとんと

叩いて解かせ、光は疑問符飛ばしまくりの顔でランティスを見上げた。

 「伯爵に血を吸われたと言ったろう? ドラキュラ伯爵が作り話だなんて軽んじて

いた俺があさはかだった…」

 「へ? …えーと、ドラキュラ伯爵じゃなくてモスキートン伯爵……ごめんなさい、

私がややっこしいこといっちゃったからだね。伯爵なんて言ったけど、早い話が蚊に

食われたんだ。寝てるあいだに痒くてそこを掻いたからこんなになっちゃっだけで、

ドラキュラに噛みつかれたわけじゃないよ、これ」

 「…『カ』とは何だ?」

 日本語-セフィーロ語の会話は創造主《モコナ》の思し召しであまり困らないのだが、

たまに対応する言葉が無いこともある。

 「わぁ、セフィーロって蚊いないの? …そういやこっちで食われたことない気も

するかな…。んーとね、このぐらいのサイズの虫なんだけど、人のとか動物とかを

刺して血を吸うんだ。その時ちょっと毒が入るみたいで痒くなっちゃうんだ。掻くと

こんな風に余計に赤くなって腫れちゃうって解ってるんだけど、つい…あー、痒いっ!

虫さされの薬なんて持ってきてないし、ううっ」

 「こちらの毒消しが効けばいいのだが…」

 「あんな辛いのやだ! 放っておいてもそのうちに治るよ」

 「お前に噛めとは言わん」

 「でもでもっ! あれって毒を受けてない時に噛んだら声が出なくなったりする

じゃないか。そんなのダメだよ!」

 「そんな噛みかたはしない。心配するな」

 止める光に取り合わず、ランティスは鎧の蒼い宝玉から革袋を取り出しその中の

包みを開いた。黒い丸薬を一粒口に含むと咀嚼し始める。

 予想と違う形で呆気に取られた隙をつかれた光はただおとなしく見守るしかない。

いつまで噛んでいるんだろうと光が物問いたげに小首を傾げると、ぐっと腕を引いて

膝の上に落とし込み襟ぐりに手をかけそのままそこに口づけた。

 「ぅぁ…ぃ、ゃぁ…」

 くすぐったさに光が声を上げる。ランティスは傷口から毒を押し出すように軽く

咬んだり、薬を塗り込むように舌で押しつけたりを繰り返す。こそばゆさを堪える

光が時折ふっともらす吐息の甘さに煽られたのか、口に含んでいた薬を懐紙のような

ものに吐き出すと今度はその傷痕を強く吸って所有のしるしを刻みつける。

 「あ…ダメだよ、そんなトコ…」

 ぽすぽす叩いて抗議してみても、ランティスはまるで取り合わない。

 「見えちゃうじゃないか……ねえったら、ランティス!」

 蚊に刺された掻き痕よりもはるかに鮮やかなしるしを残し、ようやくランティスが

頭を起こす。

 「見えるところがいやなら…見えないところにつけるか?」

 「なっ、なっ、なっ、何言うのかなっ!! まだこんなに明るいんだよ!?」

 「ならカーテンをひこう」

 「ダメったらダメ!! ……ここって遮光カーテンじゃないんだもん…そんなの…

恥ずかしすぎる…」

 ぶつぶつ呟く言葉の中に出てきた聞き慣れぬ言葉を頭の片隅にとどめつつ、最近少し

解りかけてきた本気で拗ねられない匙加減で手管を切り替える。

 「そう言えば…城下町に旅芸人の一座が来てるそうだ。どういう縁か聞かなかったが

王子の古い知り合いらしい…」

 「王子って、フェリオの??」

 「他に王子がいるか?」

 「いないけど。旅芸人って見たことのないや。何するのか興味あるなぁ。あ、でも

ランティスお仕事中だよね…」

 「別に急ぎじゃない」

 「見に行きたいけど…安静にしたほうが良くないか? ほら、ヴェロッサを口に

したんだし…。どこか痺れたりしないか?」 

 「生は灰汁(あく)がきついせいで痺れになったりするが、炒ると適度にそれが抜ける。

それを丸薬にしているから問題ない」

 「そっか。良かったー」

 気がかりが晴れてにこにこっと笑う恋人に幾許かの罪悪感を感じつつ、ランティスは

そのまま外へと連れ出した。

 

 

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 ヴェロッサ…セフィーロの毒消し草。味は激辛で、毒を受けない状態で口にするとしばらく麻痺がでる。トヨタヴェロッサより