課外授業 vol.8 〜All Over〜
とろとろと眠りと覚醒の狭間に居たイーグルが、人の気配で目を覚ました。
『おはようございます…、いや、もうお昼も過ぎてるのかな。こんにちは、ランティス。起き出したりして大丈夫なんですか?』
「あぁ。――ヒカルが、話したのか?」
『日曜、トウキョウに戻る前に来てくれましたから。「自分のせいで、ランティスが酷い怪我をしたんだ」って、泣いてました。
本当はあなたが目覚めるまでついていたかったみたいですけど、ウミとフウが引きずるようにして連れて帰りましたよ』
「ヒカルのせいじゃない。俺が未熟だっただけだ。それより、ヒカルの様子に変わったことはなかったか?腕が動かないとか、
しゃべれなかったとか…」
『僕は見えないんですから判りませんよ。あなたのこと話していったんだから、しゃべれてないわけないでしょう?ずいぶん
おかしなこと訊くんですね』
見舞いに来た時の光は確かに声が出せない状態だった。心での会話に慣れていないせいか、加減があまり上手くいかず、
ほとんど「どなってる」ような有様だったが、「ランティスには絶対に言わないで!」と、光と先に約束させられていたので、
イーグルはとぼけることにした。
「そうか…」
そう答えながら、ランティスは何かを確かめるように、自分のくちびるに軽く触れていた。ヴァイパーの毒に侵された朦朧と
する意識の中で、すぐさま吐き出したくなるようなティアナの苦味と、喉が焼けつくようなヴェロッサの辛味と、ほんのわずかな
血の味と、涙のような塩味の柔らかな感触を何度も感じた気がしていた。導師の回復魔法で毒も外傷も癒えるとはいえ、
毒を受けてからの時間が経てば経つほど、もっとランティスが受けるダメージも大きいはずだった。それが三日もせずに
普通の生活に戻れているのは、もしかしたら光が応急処置をしたのかもしれないと思っていた。どれが傷薬で、どれが
毒消しなのかは知っていたはずだから――。それでもエクウスで城に戻って人を呼んでくるようにと行かせたはずだし、なにも
ない状態でヴェロッサを口にしたなら、とてもイーグルと話など出来なかっただろう。
『どうしたんです?急に黙り込んで…。ヒカルと喧嘩でもしたんですか?』
「喧嘩をしたつもりはない。俺が、泣かせただけだ。レディ=エミーナにも言われていたのに…」
『ああ、それで…。――ねぇ、ランティス。かさぶたって知ってますか』
「…傷口に出来る乾いた血の塊だ」
『厳密に言うとちょっと成分は違うんですけど、まぁ、それのことです。セフィーロの人は魔法で外傷治しちゃいますよね。
だったら長くかさぶたがあるような経験はないんじゃありませんか?』
「確かにないが、俺はヒカルの話をしているんだ。今は関係ないだろう!」
酷く苛立っているランティスを、イーグルが宥める。
『だからそのヒカルの話をしてるんですから、ちゃんと答えて下さい。大きなかさぶたが長い間あったことって、あります?』
「ない」
『じゃあ、怪我をして、かさぶたが出来て、やがてすっかり治るって経験はないんですね』
「ないと言ってる」
『ヒカルに泣かれて辛いのは解りますけど、大事なことだから、落ち着いて聞いて下さい』
「…すまない。だが俺のことはいいんだ。ヒカルのほうが、ずっと苦しんでる」
『ヒカルはあなたのことを気にかけてましたよ。「ランティスのほうがもっと辛い想いをしたのに、私の心配までさせて
しまった」と…。本当に優しいお嬢さんですね』
「…ヒカル…」
『話を戻しましょう。例えば崖から転落して盛大な擦り傷を作ったとします。皮一枚じゃなく、広くてそこそこ深い傷。
怪我をしてすぐは、血まみれだし、痛みで気を失うし、またその痛みで眠りを妨げられるような酷い傷です』
ランティスは目を閉じて話を聞きながら、眉をしかめている。
『そんな酷い傷でも、時間が経てばかさぶたになります。その頃にはもう痛みもひいて、目につかない場所なら、
かさぶたがあることも忘れるぐらいです』
「忘れていれば、泣いたりしないだろう…」
『ヒカルだって、来るたび泣いている訳じゃないでしょう?それに、まだ続きがありますから、黙って聞いて下さい。
かさぶたって、治る前に妙に痒くなったりするんです。掻いてしまったら、また血が出たり、傷痕が残ってしまうことを
経験で知っているのに、抑え切れないぐらいに。眠ってる間に掻いてしまうこともよくあるんです』
「今のヒカルは、その『治りかけ』状態だと?」
『…だから話はまだ終わってないんです。かさぶたが出来た頃には痛みもひいて、その存在も忘れるぐらいだと
言いましたけど、忘れてるだけで別に消えてなくなった訳じゃない。何かの拍子に目についたり、手に触ったりすれば、
そのかさぶたの存在とその原因をまざまざと思い出してしまうんです。フラッシュバックって呼ぶものです。例えば
あなたの子供時代の話を聞いて、そのそばにいたはずのあなたの兄上のことを…、あなたの兄上に自分が何をして
しまったか、とかをね。――FTOならあなたも経験しているけど、魔神の中に居るときの彼女達の感覚を聞いたことが
ありますか?』
「いや…」
つらい戦いの記憶を呼び起こさせるのもどうかと案じてランティスからは触れなかったし、光も自分から話そうと
しないので魔神の話などほとんどしたことがなかった。
『FTOの操作方法を覚えるのに、あなたもそれなりのレクチャー受けましたよね?ところが、あの魔神にはそんなもの
なかったそうです。空を飛ぶのも、自分がそのまま飛んでるような感じで…。「魔神を纏う」とは、よく言ったもんです。
それに、FTOにしろGTOにしろ、腕を吹っ飛ばされようが脚を吹っ飛ばされようが、乗ってる僕らは痛くも痒くもありません
でした。まぁ、ザズは泣いてましたけど。でもあの子達の魔神は、例えば赤い魔神が左腕を傷つけられたら、中のヒカルも
同じ場所に傷を負ってたんだそうです』
「ばかな…」
『…やっぱりあなたには、いや、セフィーロの人には言えなかったんですね。もう、解るでしょう?魔神を纏っていたとは
いえ、あなたの兄上やエメロード姫を倒したとき、あの子達がどれだけ生々しくその感覚を受け取ったか…。人をあやめる
どころか、小動物一匹狩ったことのないような女の子なんです。きっと向こうでも、フラッシュバックに苦しんでるんじゃないかと
思いますよ』
「なにひとつ解っていなかったんだな、俺は…」
『いや、本当のことは、誰にも言いたくないんじゃないかな…。それに、倒したときの感覚については、僕の憶測も入ってます。
ヒカルの魔神と戦ったとき、FTOのレーダーを破損したんですが、そのときのことを「痛くなかったか?」って訊いてきたので…。
おかしなことを訊くと思ったら、「魔神を纏う」感覚を教えてくれたんですよ。だから、そうなんじゃないかと…』
「酷い話だ…。異世界の者を巻き込むだけでは飽き足らなかったのか…!?」
『――ヒカルには、お兄さんがいるんでしたよね?コンディションが…、特にメンタル面でのコンディションが悪ければ、
「兄」というキーワードだけでも充分フラッシュバックの引き金になります。さらに悪いことに、向こうではそれこそ泣きつく相手も
いない』
「ヒカルの兄たちが放っておくとは思えないが」
『かなり過保護なお兄さんたちのようですからね。それでも、ヒカルがお兄さんたちに本当のことを言えると思いますか?
「崩壊寸前の異世界を救うために、その原因を作った人を殺してきました」だなんて…。向こうで、少なくともヒカルの住んでる
国でそんな話が許されるのは、物語の中だけなんですよ。魔神に認められただけに、ヒカルは…、ヒカルたちは本当に心の
強い子だと思います。そうでなければ、笑顔なんて見せてくれなかったでしょう。最悪、心の重荷に耐え切れずに自殺って
ケースも、無いとは言えないんですから。だけどいくら強くても、全然傷つかなかった訳でも、すっかり傷が癒えた訳でも無い。
もしかしたら、このまま一生引きずっていくかもしれない』
「解ってる…」
『あれからまだ五年と経っていないんです。立ち上がって前に進もうとしても、フラッシュバックで立ちすくんだり、傷口が
開くことを知っていながらかさぶたを剥いでしまったり…ストレスからくる自傷行為の一種なんですが…、あるいは涙を
堪えきれなかったりしても、仕方ないでしょう?ヒカルが背負ってしまったものを知っているあなただから、泣かれるとつらいのは
解ります。でも、全てを知っていて、受け入れられるあなただからこそ、ヒカルを泣かせておいてあげてください。そうでなければ、
行き場を無くした想いに押し潰されて、ヒカルの心は取り返しがつかないほど壊れてしまいますよ』
「…お前のほうが、ヒカルをよく見てるな」
『第三者のほうが、解ることだってあります。それに休職中とはいえ、これでも最高司令官なんですよ。実戦で敵を倒した
新兵の心理状態の知識ぐらいありますからね。だけどヒカルが本当に心を委ねられるのは、ランティス、あなただけです』
「…」
『あれ?僕の言うことを信じてくれないんですか?』
「お前のところでも泣くことはあるだろう?」
『それはあなたのこと限定です。僕はまだヒカルを気配でしか知りません。普段のヒカルは彼女の纏っていた魔神のような
燃えさかる炎のイメージなんですけど、いつごろからかなぁ…、あなたのことを話すときだけふんわりとした優しいイメージに
かわるんです。あんなに変わったら、女の子ってすごく綺麗になってると思うんですけど、気づかないんですか?』
「…」
『あーもう、これだから朴念仁は困るんだ…』
「悪かったな」
『ヒカルの心が見えすぎるからって、ジュケンの区切りがついたあとメディテーションやめたみたいですけど、続けていたら
解ったんじゃないですか?いま、ヒカルがあなたをどう思ってるか…』
「ヒカルは心を遮断する術を知らない。今の俺がやったら、彼女が伏せておきたいことにまで踏み込んでしまうかもしれない。
それは…卑怯だろう?」
『ふうん。フルパワーの神官モードでメディテーション出来るようになったって言ってましたっけ?』
ふと思い出したように、ランティスがムッとした表情を浮かべた。
「そういえば、昔、ヒカルとのメディテーションを、あらぬ疑いで邪魔してくれたな、イーグル…」
『もうお仕置きは受けましたよ』
「俺も導師の仕置きを受けたから、すっきりしない」
『それは八つ当たりって言いませんか?ランティス』
「そうだな。あれはあれで使える魔法が増えた。ヒカルの話を聞かせてもらえて助かった。ありがとう」
『――雨、降りますよ?』
「…魔法を食らいたいなら、素直にそう言え」
『いえ、遠慮します。変わったのはなにもヒカルばかりじゃありませんね。ランティスもずいぶん雰囲気が柔らかくなりましたよ。
あなたたちの顔を早く自分の目で見たいです』
「そう思うならさっさと起きろ。ヒカルも待ってる。『ワールドツアー』をやるんだろう?」
『ヒカルに聞いたんですか。だったら話が早い。ヒカルのこと教えてあげたんですから、代わりにセフィーロの美味しい
甘味どころに案内してくださいね。あぁ、他人任せは、ダメですよ』
起きていれば、あのほえほえ顔で笑ってるに違いないイーグルの言葉に、ランティスは「うっ」と拳を口許に当てつつ引き
攣っていた。
日本の暦で土曜日にあたる今日は、あの少女たちがやって来るはずだった。エルグランドの森での事件から一週間。
いまランティスは広間にいない。それどころかイーグルの見舞いにも行けず、ほとんど自室で書類を片付けるのに追われていた。
事件の日と、そのあと臥せっていた二日間と、起き出した翌日にはラファーガたちとのヴァイパー掃討作戦に参加したので、
デスクワークが文字通り大きな執務机に山積みになっていた。その上、どういうわけか、これまでクレフが片付けていたはずの
ものまでがランティスのところに回されてきていた。カリカリと羽根ペンを走らせながら、異世界から広間に現れたその人の
気配に、ランティスはホッとしたような表情を浮かべた。光との感情のすれ違いも解消しないまま戦う羽目になり今日まで
きたので、光がセフィーロにくるかどうかを危惧していた。先週の勉強会は事件のせいで中止になったというし、きっと今週は
その分も光は絞られるだろうから、四時間は猶予がある。その間に自分も一山なりと仕事を片付けてしまおうとランティスは
デスクワークに集中した。しかし、四時間あると思っていた猶予は五分もなく、広間から全力で駆けてくる少女の気配が
ランティスの手を止めていた。
事情聴取を受けはじめる頃になって、ようやく魔法が解かれたことはクレフに教えられたので知っていた。さっき広間で
迎えてくれたプレセアたちに、ランティスが日常生活に戻っていることも聞かされた。それどころかヴァイパーの掃討作戦にまで
参加していたということも。それでも光は自分の目で確かめずにはいられなかった。
『光さん、勉強会が先のお約束ですわ』
『こらっ、光!二週連続でサボりはダメよっ!』
風や海の制止を振り切って、光はランティスの執務室へと駆け出していた。途中ですれ違ったラファーガに、『廊下を走るな!』と
小学生のように叱られても、『ごめんなさいっ!』だけでスルーした。
廊下を駆けながら、光は頭の中であれこれと考える。先週末に比べれば話せるだけマシとは言え、聞くに耐えない酷いガラガラ
声だった。喉にきた風邪が長引いたのだとでも言い訳しようと思いつつ、「ハスキィボイスも素敵!」と、後輩からのファンレターが
倍増したと話したら笑ってくれるかなと、変に足掻いている自分を自覚してもいた。
「まず体調のこと聞いて、それからちゃんと謝って、あの子たちのこと教えてもらって…、あと、なんだっけな」
日曜の事情聴取のあと、子供たちを親元に送り届けるのに同行するつもりだった。しかし城での様子見がもう一日延ばされた
為に、光はラファーガたちに任せざるを得なかったのだ。
「もう一度、あの森に行きたいけど、今日は日帰りだから無理だし…」
セフィーロの中枢を担っているひとりなのに、広間から一番離れたところに構えられたランティスの執務室兼私室のフロアに
ようやくたどりつく。ドアをノックする前に、もう一度言いたいことを整理しようと目を閉じて俯いていると、扉がひとりでにゆっくりと
開いた。クレフ同様気配に敏いので、駆けてきた光のことなどとっくに気づいていたのだろう。開かれたドアの正面には、大きな
執務机に向かうランティスがいるはず…。ひとつ大きく息を吐いて顔を上げた光の目に、ランティスの姿は映らなかった。
「あれ?ここ倉庫…?」
「倉庫に住まう趣味はない」
光の失礼な呟きにランティスの声が答えたが、相変わらずその姿が見当たらない。机にうずたかく積み上げられた書類の上に、
見慣れた大きな掌が見えた。
「ランティス!?あっ、あの、お邪魔します」
光が倉庫と勘違いするのも無理はなく、机に置ききれない書類が床にも山を作っていた。うっかり崩してしまわないように、
そろりと合間を縫うようにして、光はランティスのそばにたどりついた。山積みの書類にうんざりしたようなため息をついたあと、
椅子を回転させてランティスは光と向かいあった。変わらない様子に光はホッとひと安心したが、いつものように光の頬に
伸ばされたランティスの大きな手が、触れる寸前でびくんと止まった。それだけで、その事実だけで、あの時の自分がどれほど
ランティスを傷つけていたのかを光は思い知らされた。もう二度と、ランティスの大きな手で頬に触れられることもないのだと、
自らの手でその立ち位置をぶち壊したのだと思うと、言いたかった言葉のすべてが行き場を失ってしまった。
「まだ声が戻らないんだな…」
つらそうな表情でランティスが呟くと、光は慌てて言葉を拾い集めた。
「え?ランティスと出掛けたときも変な声してた?向こうで風邪こじらせちゃって、こんな声になったんだ。でも、この声が
カッコイイって、ファンレター増えちゃってさ、返事書くのも大へ…ん」
「ヒカルは嘘つきなのに、嘘をつくのが下手だ」
頬に触れなかった右手の人さし指が、光の乾いたくちびるに触れた。
「な、何を言ってるのか、解らないよ」
「イーグルや城の者には口止めしたんだろうが、子供たちには出来なかっただろう?」
「…!」
切り返せないのは、事実と認めたようなものだった。
「あの日、お前がいてくれてよかった。俺一人ではとても子供たちを救えなかった」
「私たちを護ってくれたのはランティスだよ。あんな…、あんな危ない魔法の使い方して!クレフでも解けなくて、もう
どうしようかと…」
泣くまいとくちびるを噛み締めてみても、零れ落ちる涙を止められなかった。そんな光を宥めようとランティスが伸ばした手が
右の二の腕に触れると、光は「つっ…!」と小さく苦痛の声を漏らした。
「ヒカル…?」
「何でもないっ。ちょっと静電気がきて…」
本当に静電気なら、ランティスも感じないはずがないなのに、言い訳にしてもお粗末過ぎた。そんな光に、ランティスが
大きく息を吐き出した。
「ヒカルのくちびるは嘘ばかり紡ぎ出す…。身体のほうが、正直に教えてくれるか?」
「え――?」
光の右手を掴まえたまま、ランティスは光のブラウスのボタンをひとつずつ外しはじめた。ボタンの多いデザインで、
手の小さな光が両手でやっても扱いづらかったのに、大きな手は意外なほど器用にボタンを外していく。逃れようとして
みても、光の右手を掴んだランティスの左手は少しも緩まなかった。
「な、何してるの、ランティス…っ!」
「ボタンを外してる」
「いや、だからどうして」
「ヒカルが少しも本当のことを話さないからだ」
外せるだけのボタンを外したランティスは、光のブラウスをたくし上げた。袖をめくられてあらわになった光の二の腕は、
時間の経った内出血で酷い色になっている。
「これは、その…」
「俺が掴んだ痕だな。すまない」
きっと子供たちの誰かからそれも聞いていたのだろうと、光はようやく観念した。
「私の手当ての仕方が下手だったからだよ。ランティスが悪いんじゃない」
「どうして放っておいた?いくら魔法でも、時間が経てば治りは悪くなるんだ。綺麗な肌に傷跡が残ったりしたら…」
「いいんだ。これは罰だから。ランティスに酷いことばかり言っちゃった罰なんだ。…あのときは、ごめんなさい」
「俺に謝っているのか?なら、俺はヒカルの身体を傷つけるような罰は望まない。それに――」
大きな右手は光の顎を掬い上げ、人さし指だけは柔らかなくちびるに触れていた。
「罰を受けるべきは、嘘つきなこのくちびるだと思うが…?」
秘めた想いを抑えておくことを放棄した熱っぽい蒼い瞳が、光を捉えて離さなかった。このあとどうなるかは、光でさえも
予測はできた。
「ランティス…、あのっ」
「静かに」
互いの前髪が頬を撫で、話せば吐息がくすぐったいほどに近づいていた。
「約束してほしいんだ」
「何を?」
「たとえ誰かを救う為でも、あんな危ないことはしないって…」
「ヒカルが、そう望むなら」
もう少しでくちびるが触れようとしたとき、魔法に同等の魔法がぶつけられて対消滅を起こした衝撃がランティスの執務室を
襲った。立ち上がるのと同時に、ランティスが叫んだ。
「まずいっ!ヒカル!そっちの床の書類を押さえてくれ!!」
生まれて初めてのラブシーン未遂にぽうっとなっていた光は、ランティスに言われた意味がすぐには解らず、スタートダッシュに
失敗し、押さえるはずの書類の山を崩しかけた。
「うわわっ。ごめんっ!」
光が崩しかけた書類を左腕で受け止め、右腕で光の身体を抱えたとき、なにもないはずの天井から大量の書類が降りそそいで
きた。突然落ちてきた書類に、整然と積み上げられていたものまで崩されたところに、海と風がノックもなしにランティスの部屋に
飛び込んできた。
「なななっ、なにやってるのよっ!」
海たちの目に映ったものは、部屋中に散乱した書類と、床に倒れこんでいる光と、その光を押さえつけてるように見えなくもない
ランティス…。
「なにって言われても…、ねぇ?ランティス」
何が起こったのかよく解らない光の答えは要領を得ず、さらなる誤解を生むには充分だった。
「殻円防除で光さんを閉じ込めて、こんなことをなさるなんて、私、許しません!!碧の疾風!!」
ランティスの手がその魔法を受け止めるまでに、積み上げられていた書類は部屋を吹きすさぶ風にすべて舞い上がりその山を
崩していった。
とりあえずの誤解は解けたものの、そのまま光は勉強会のために連行されてしまった。部屋に残ったのは、散乱した書類と
それに頭を抱えたランティスだけだった。遠く離れた部屋の導師に、ぐったりした様子でランティスが文句をつけた。
『導師…。いい加減にこの出鱈目な書類の渡し方はやめていただけませんか』
ランティスの殻円防除に魔法をぶつけて消せる者など、導師クレフ以外にはいなかったし、こんな転送技が使えるのも、
このセフィーロでクレフ唯一人だ。
『お前がそんなところに居座ってるからだ。そこまで届けに行く人手がないんでな』
『書類だけなら俺の魔法を解かなくても送れたはずですが?』
もう少しというところを邪魔された弟子の不機嫌さの理由を知ってか知らずか、クレフは笑って答えた。
『「光が二週連続で勉強会サボって困ってるんです」とウミに泣きつかれたのでな。私は魔法騎士の涙には弱いんだ。
あぁ、いま渡した分は、明日中に頼む』
碧の疾風にかき回され、どれがいま来た物かなどさっぱり判らなくなった書類の海を眺めつつ、勉強会で絞られる光の苦労が
なんとなく判るような気がするランティスだった。
2009.12.6
このお話の壁紙はさまよりお借りしています (2010.2.6壁紙変更)