Traveling Stone 《旅の石》
洞穴を抜けたところでランティスが精獣を招喚し、先に鞍に跨がり、鐙に足を
掛けた光を掬い上げる。
「海沿いに住んでるみたいに言ってたよね」
「火山を囲む深い樹林に覆われた島のようだったからな。その辺りのほうが
集落を作るのに適しているんだろう。上から探すぞ」
横乗りになっている光の身体を左腕でしっかりとホールドして、ランティスは
《跳ね馬》を駆け上がらせる。
「わぁ、凄いなぁ。こんなところにレイアースは眠ってたんだね。セレスや
ウィンダムのおうちもちょっと見てみたかったかも」
せっかくだから寄り道したいと言い出される前に、ランティスが予防線を張る。
「…魔神も無しに海淵に引き込まれるのは危険だからよせ」
殻円防除が深海でも有効かどうか試すことになるのは、あまり気が進まない。
「それもそっか。私たちが魔神を手に入れた時は、モコナが乗り物を用意して
くれたんだよ。旅する間も、泊まる部屋とか食べ物とか全部モコナが出してきて
くれてたんだ。乗り物まで出てきた時は『こんなの出せるならもっと早くに
出してくれりゃいいのに…』って、海ちゃんぶつぶつ零してたっけ。モコナって
何でも出来るんだなぁと思ったら、創造主だなんていうんだもの。あの時は
びっくりしちゃったよ。ふふふっ」
これまであまり聞く機会のなかったセフィーロでの旅の想い出を楽しげに語る
光に、ランティスが訊ねた。
「手前勝手な創造主に怒りは覚えなかったのか…?」
城の中庭やイーグルの部屋のソファで束の間の微睡みをともにした光が時折
悪夢にうなされていることをランティスは知っている。塞がりきらない…癒える
ことのないかもしれない傷を見せたがらない光に、ランティスは昔のことを
あまり聞けずにいた。問われた光は懐かしそうな顔で遠くを見つめていた。
「海ちゃんは怒ってたかなぁ…『フェンシングの試合が近いのに』とか
『ハーゲンダッツもないとこなんてやだー』とかなんとか…。風ちゃんは終始
落ち着いてた。参謀っていうの? そんな感じで…。私がきっと一番何にも
考えてなかったと思うんだ…」
見遥かした水面の眩しさだけで眼を眇めた訳ではないのだろう、微かに声が
震えていた。
「クレフに防具を授けて貰った時も、プレセアに仮初(かりそめ)の武器を借りた
時も、冒険物語の主人公になったみたいだって、浮かれてたんだ……。
『敵を倒す』っていうのがどういう意味なのか、私、ちゃんと解ってなかった…」
弓道の風は別として、光と海は竹刀やサーブルを手にして戦うスポーツをして
いた。『相手を倒す』という表現でも、剣道やフェンシングで生命を奪うこと
などありえない。だからその時まで実感がなかったのだ。『敵を倒す』イコール
『相手の生命を奪うこと』なのだと…。
命乞いされてそれでも奪うような光たちではない。だが、おのが願いの為に
決して引くことのない相手と対峙することになった時、囚われの身だと思われて
いたエメロード姫を救うために彼女たちは突き進むより他なかった。
そしてようやく姫を救い出した後に知らされた真実にどれほどの衝撃を受けた
だろう。
「エメロード姫の為にもっと他に出来ることがなかったのかって、今でもよく
考えるよ。もう取り返しがつかないことは解ってるんだけど、姫が生きて幸せに
なる道はなかったのかなって…」
「柱の在りようを変える意志の無かった姫では他の答えなどあり得なかった…」
「モコナは姫がみんなを信じてなかったって言ったけど、本当にそうだったの
かな…」
ランティス自身、臣下としての信を得ていた自負はある。クレフやザガートら
側近にも信頼は置いていたように見えた。だが、信は得ていたのだが頼られて
いたとは言えない。時に魔物退治に出掛ける者に「頼みますね」と言葉をかける
ことがありはしたが、儀礼的な色は否めないだろう。
光もどちらかと言えば自分ひとりで踏ん張り過ぎるきらいがあるが、先の姫は
その比ではなかった。彼の兄であるザガートはエメロード姫を柱の座から完全に
解放することを望んでいたが、もしももう少し緩やかな変革へと導いていたなら
あのような事態には至らなかったのではないかという想いもランティスにはある。
だがそれも、今だから言える……光がもたらした新たなセフィーロの姿を見て
いるからこそ言えることなのかもしれない。
柱のみがこの世の責を全て負うことをどう思うかと尋ねられた時にその提案が
出来ていたなら、兄とその想い人を喪うことはなかったのかもしれない。
それがなければ…魔法騎士の招喚が無ければ光と巡り合うこともなかったのだ
けれど。
得られたかもしれない彼らの幸せと、今の自分の幸せは天秤の両端のようにも
思えて、内なる望みのまま振る舞うことをランティスに躊躇わせていた。
「あの辺、建物多いんじゃないか?」
光の声に、ランティスの意識が現実に引き戻される。ポルテの村よりさらに
規模は小さいが集落と呼べそうな一画に跳ね馬を向かわせる。
騎乗のまま集落に乗り込んで無用の威圧感を与えてもどうかということで、
ランティスは村はずれの林に精獣を降り立たせる。身軽に飛び降りた光は、もう
見ることもないだろう草花をじっくり観察したりしていた。
「その花がどうかしたのか?」
「可愛い花だから海ちゃんや風ちゃんにも見せてあげたかったなぁって…」
「セフィーロに持ち帰るのか?」
ひととき花を愛でるだけならともかく、種として受け入れるにはいろいろと
踏まねばならない手順もある。光たちが異世界からセフィーロに持ち込んだ物は
多々あるが、自然界に纏わるもので受け入れたのは桜のひと枝だけだ。
「ううん、やめておく。大丈夫だとは思うけど、せっかく綺麗に咲いてるのに
向こうの環境に適応できなかったら可哀想だもの。ケータイ持ってたらカメラが
あったんだけど、それは置いてきちゃったんだ。だからじっくり見てるだけ」
「スケッチすればいい」
精獣を戻界させたランティスが胸の石に手をかざし、小さなスケッチブックと
コンテパステルのようなものを取り出して光に手渡した。
「・・・どうしてこんなもの持ち歩いてるんだ?」
「セフィーロには『かめら』がないからな。持ち帰らずに誰かに見せるには
描きとめるしかない」
「そっか。セフィーロの魔法には念写ってないのか? 見た物そのまま紙や
フィルムに写し出す技!」
地球で超能力と呼ばれるところのものとセフィーロの魔法を同列に見ている
きらいのある光にランティスが苦笑する。
「導師クレフに教わった魔法のうちにはないな」
「ふぅん。ところでこれを渡されても私描けないよ。リアルに描くのは得意
じゃないんだ」
「試しもせずに諦めるのか? ヒカルらしくないな」
「だから落書きみたいにしか描けないんだってば」
「ヒカルが描く絵を見てみたい」
「ええっ!? ここで写生大会?」
「《シャセイタイカイ》…?」
「学校であるんだ。全員で一日絵を描くって行事」
「恐らく二度とは来られない場所だ。記念になると思うが」
「うーん…」
「出来れば俺もこの辺りの生物相を調査する時間が欲しい」
「なんだ。そういうことならちょっとやってみるよ」
体育座りで膝を画板代わりにして光が花とにらめっこを始める。その傍らで
ランティスももう少し大きめのスケッチブックを取り出し、さらさらと描き留め
始めた。
次々立ち位置を変えるランティスを不思議そうに光が見上げる。
「なんでそんなに早いの? …ラフだけ?」
「いや、細かく描き留めてる」
「見せて、見せて!」
結局、落書きの域を脱出出来なかった光がすたっと立ち上がってランティスの
スケッチブックを覗き込む。
「わぁ、凄い! モノクロ写真みたい!」
セピア色のコンテパステルで描いた為に、昔の写真でも見ているような趣きだ。
光が海たちに見せたいと思っていた花もそこにあるままの姿をとどめていた。
「これ、海ちゃんたちに見せたいなぁ…。ダメか?」
「俺が描いたものよりヒカルが描いたもののほうがいいんじゃないのか?」
「うー、目一杯頑張ってこれなんだよ!? これ、あのお花に見える??」
「・・・・・」
可愛らしい花の絵ではあるのだが、特徴を捉えているとはお世辞にも言えない。
「ほら、言葉も出ないじゃないか」
「…もう少しよく観察するといい」
「見てれば描けるってもんじゃないんだよ」
むくれたように口を尖らせた光にランティスがくすりと笑った。
「それでは魔導師の修行は出来ないな」
「ええっ!? 修行って魔法の勉強だけじゃないのか?! 画才がないと門前
払い?」
いずれセフィーロで暮らすようになった暁にはもう少しぐらい魔法を使える
ようになりたいと考えていた光には思ってもみない落とし穴だった。
「魔導師はお前たちの世界の医師や薬師も兼ねている。薬草、毒草を見分ける
目を養うことも大切だし、見慣れぬ植物だからと片端から刈る訳にもゆかない。
ヒカルに見せた植物図鑑も多くの魔導師が知識を共有する為に編纂を重ねた物だ」
「ふうん。そんな苦労があるんだね」
それでも中にはランティスの父・クルーガーのように一向に上達しない者も
ある。概してセフィーロに於ける魔導師というものは敬意をもって遇される存在
であったりするが、彼のようにずば抜けた才が有れば、表舞台に立てずとも仕事
には困らない。魔法の真髄たる昏(くら)き淵を覗くならば、世間から隔絶された
隠れ里で勤しむほうが何かと都合がいいというものだ。
とは言え、光にそういう方面を目指されても困るランティスは、表向きな方へ
誘導を図る。
「魔導師として独り立ちするのを前提に一から修行するつもりなら、そういう
ことも必要…というだけだ。ヒカルは魔導師になりたい訳ではないのだろう?」
「…うん。そんなにきっちりとは考えてないけど、魔導師目指す予定はないよ」
『きっちりとは考えてない』というのは少し嘘になる。中学三年の頃から、
目標はもうきちんと定めている。そのために風や海にも受験勉強を付き合って
貰っているのだ。ただ、まだそれを実現出来るだけの力が自分にないから口には
出さないだけだ。話しながらも描く手を止めないランティスの邪魔をするのも
気が引ける光が訊ねた。
「もう少し向こう見に行ってもいい?」
「危険は無いと思うが、あまり離れるな」
「うん、見える範囲に居るよ」
植物は豊かなように見えるが何か小動物がいはしないかと光はキョロキョロ
見回していた。
「動物とかってまだ見てないよね」
「そうだな」
とは言え、彼らもそうあちこち渡り歩いた訳でもない。森の中に棲むものが
あったとしても異世界からの闖入者に息を潜めているのかもしれない。
辺りで一番立派な木の豊かに繁る葉の合間に小鳥の巣でも見えはしないかと
背のびして見上げていた光が、筋肉の強張りに音を上げて肩を上げ下げして
ランティスのほうに歩き出した。
「いっぱい描けた?」
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